イエスの復活についての記述において福音書は一致していません。
果たして
マグダラのマリアにイエスは現れたのかどうか、
もし現れたのなら、
何処で現れたのか、何時現れたのか、何をメッセージとして与えたか、
マリアは恐ろしくて誰にも言わなかったのか、
それとも喜んで報告に帰ったのか、
その報告に、弟子たちはどのように反応したのか、
墓に戻って確かめたのか、誰が墓に戻ったのか、墓の中に入ったのか、
ガリラヤにみんなで行ったのか、エルサレムに残ったのか、
家の中に隠れていたのか、公然と神殿で神をほめたたえていたのか。
これらのことについて、福音書は一致した回答をしていません。
イエスの復活に関する記録は、
聖書全体の中でも最も矛盾の多い部分ですが、
その中でも、特にイエスの出現そのものに関する記録は、
各福音書、使徒行伝、パウロの手紙、
それぞれが独自の記録を持っていて、その証言がほとんど一致しません。
それはまるで、被告人のアリバイを立証して、
無実を証明しようとして呼んだ複数の証人たちが、
それぞれ、熱心に、「被告人は事件当時わたしの家にいました」
と証言するようなもので、
証言そのものが被告人を窮地に追い込むのに似ています。
イエスが死から復活したことを証明しようとして、
マタイやルカやヨハネやパウロは、
それぞれ、「イエスがわたしに現れた」と熱心に主張する証人を
たくさん登場させるのですが、
彼らの証言がお互いに矛盾しているのです。
しかも、
弟子たちやパウロの元々の出現の証言そのものさえ、
瞬間的に消えたり、声だけだったり、幻の中だったり、
結局[聖書にこう書いてある]と書かなければならなかったりして、
客観性の欠如した、極めて頼りのないものです。