ローレンス・ヴェヌティ 他2名「 翻訳のスキャンダル 差異の倫理にむけて」この書籍はおすすめでしょうか?

画像

ベストアンサー

0

その他の回答(1件)

0
ID非公開

2022/6/30 12:01

翻訳のスキャンダルは、文化や経済、政治にまでまたがる問題だ。翻訳がなぜ今日、とりわけ英語圏で(排除されているわけではないにしろ)、研究や、評釈、討論といった営為の末端に追いやられているのかと問うとき、スキャンダルは白日のもとにさらされる。こうした末端についてなにかを書こうとすれば、たんなる悪口を並べたてたものや、翻訳がおかれた目を覆うばかりの不遇、その結果として生まれた被害者といった上澄みだけを映したものになりかねない。翻訳は、著作権法に疎まれ、学術界では軽視され、出版社や企業、政府、宗教団体からは搾取されるという烙印を押されている。思うに、翻訳があまりにも不利なあつかいを受けているのは、支配的な文化的価値観や制度の権威に疑念をいだく契機になるからだ。そして、権威を覆そうという試みがおしなべてそうであるように、ダメージ・コントロールほかさまざまな反動的なリアクションを引きだしてしまうのだが、こうしたものはどれも翻訳のあつかいをうやむやにすることで、疑義を付された価値や制度を強化するように仕組まれている。 私のプロジェクトは第一に、翻訳を現在のマージナルな地位に追いやっているカテゴリーや実践の幅と、翻訳そのものとのあいだの関係に立ち入り、そうしたスキャンダルを暴露することにある。この試みは、翻訳研究トランスレーション・スタディーズという、まさに芽生えつつあるディシプリンから最初の一歩を踏みださなくてはならない。翻訳の研究と翻訳者の訓練は、経験則による偏った翻訳観をもたらす、言語主体のアプローチが蔓延しているせいで足を引っぱられてきた。こうしたアプローチが研究上推進するのは科学的なモデルということもあり、いきおい社会的な価値(翻訳の研究同様、翻訳自体にもつきものなのだが)は考察の対象としては依然としてしぶられたままになる。ゆえに研究は科学主義・・・・的なものになり、自分が客観的かつ価値中立的な立場だと主張する一方で、ほかのあらゆる文化的な営み同様、翻訳が価値の創造的な再生産をともなうという事実を閑却するのだ。結果として、翻訳研究は一般理論の構築およびテキストの特徴と方略の記述に終始することになってしまう。こういった路線の研究は、説明能力の限定もさることながら、主にほかの言語学者を対象にしたものになり、翻訳者や翻訳の読者、それどころかほかの人文諸学の専門家にむけられたものですらなくなってしまう。結果、翻訳は分野として孤立し、同時代における関連した意義深い文化的な展開や議論からも切り離されている。 しかし、はるかに翻訳研究のさまたげとなるものは、ディシプリンそのものの外に存在する。翻訳を貶めているのは、「著者性オーサーシップ」という(とりわけ文学や文学研究で)一般に流通する概念である。これこそが、特定の国の法律だけでなく、主要な国際条約の条文においてですら、その好まざる著作権法上の定義の下敷きになっているのだ。翻訳を根底から抑圧している文化的アイデンティティを構築してきたのは、学術の、宗教の、政治の制度である。つまりは外国文学――とりわけ西洋の正典キャノンを集めた「名著グレートブックス」――の教授法においてであるとか、哲学的概念や哲学史の研究においてである。実業界でも翻訳の存在を無視することはできない。海外でのベストセラーの出版や、ヘゲモニーを握る北半球・西半球の国々とその他のアフリカ・アジア・南アメリカの国々とのあいだの異文化通商に見受けられる不均衡がそうである。翻訳はグローバルな文化経済を駆動する。すなわち多国籍企業は、メジャー言語、とりわけ英語からの翻訳の市場性に乗じることで、いわゆる発展途上国の印刷・電子メディアを、翻訳を用いて支配してしまえるのだ。ここで言う「発展途上」とは、世界資本主義において相対的に後発であるという意味にすぎない。翻訳は、このような区分けや慣行を囲いこんでいる制度を揺るがしてしまう。なぜなら、翻訳はその制度を制度たらしめている怪しげな条件や影響、矛盾や排除といったものに目をむけさせ、信用を失墜させてしまうのだ。 スキャンダルはまさかという場所で起こるかもしれない。海外文化の理解をすすめるためユネスコが発行している月刊誌『クーリエ』の1990年4月号(スペイン語版)に、メキシコ諸民族の歴史についての記事が掲載されていた。同誌英訳版の記事ではコロンブス以前のメキシコ人に対するイデオロギー的な偏向が目立った。メキシコの口承文化は、とりわけ過去の保管という点において、劣ったものとされたのだ◆1。このような中、古くからメキシコに住んでいた人たち antiguos mexicanos」は「インディアン Indians」と訳出され、スペイン人征服者とはちがう人々として明確に区別された。「賢人 sabios」は「占い師 diviners」となり、ヨーロッパの合理主義の対極にあるものとされた。「証言、証言記録 testimonio」は「書かれた記録 written records」となり、書記を口承文化よりも微妙に優位に置いている。スペイン語テキストで、一番くりかえし使われている用語がmemoriaで、文化の口頭での伝播に欠かせない能力なのだが、「記憶 memory」のほかにも「歴史 history」「過去の知識 knowledge of the past」などさまざまに訳されている。次の文章では、英訳はスペイン語原文に手を入れ、構文を単純化し、もうひとつのキーワードである「神話 mitos」を削除することで、土着文化を矮小化してしまった。 Los mitos y leyendas, la tradición oral y el gran conjunto de inscripciones perpetuaron la memoria de tales aconteceres. 神話や伝説、伝統として語り継がれるもの、そして膨大な数の碑文が、そうした出来事の記憶を永遠のものにしたのだ。 The memory of these events lives on in the thousands of inscriptions and the legends of oral tradition. このような出来事の記憶は、数千もの碑文や、口承で伝えられた伝説に息づいている。 研究者のイアン・メイソンが述べるように、翻訳が歪められているからといって、訳者の深謀遠慮のせいにする必要はかならずしもない◆2。先住民に対するイデオロギー的な偏向は独特な論の運びに見受けられ、劣ったアイデンティティを生みだし、それが所与のものであり、当然であるかのようにあつかっている(翻訳者や雑誌の編集者には、そう思われていたにちがいないのだが)。あるいは、とにかくわかりやすければいい、読みやすければいいといったことを尊ぶ翻訳ストラテジーのせいなのかもしれない。一番なじみのある語が一番偏見に満ちたものになってしまったのも、無意識のうちなのかもしれない。どうやら、ユネスコのような、翻訳や通訳に完全に依存している組織の翻訳に対する考え方は、その理念と目的を危うくするような訳文をふるい落とすほど犀利なものではないようだ。 取りあげた例のインパクトはさておき、翻訳のおかげで発覚した事実があっても、スキャンダルにはつきもののセンセーショナリズムに陥らないようにしたい。むしろ私は、翻訳との関わり(それが危ういものであれ)をつうじて、疑わしい価値と制度を再考する有意な機会としたい。翻訳が、文学や法律における著者の概念を再定義し、文化のちがいに敏感なアイデンティティのあり方を創りだせないか。さらには翻訳によって文学を教え、哲学するための別のアプローチが求められるようになり、出版社と企業に新たなポリシーの策定を薦める……そんな道を模索したいのだ。その過程で、詳細な事例研究にもとづいて翻訳についての認識があらためられ、一連の理論が立論され、実践が生まれる。難しすぎて判りませんよって私のお薦めは無しでお願いします。 過去にせよ、現在にせよ、個別の事例は貴重なものだ。なぜなら、個々の事例は翻訳が目下置かれているマージナルな立場のみならず、翻訳が下支えする意味や機能にも光をあてるからだ。翻訳のさまざまな動因や効果を今まで以上に注視したならなおのことである。翻訳が生産される理由はさまざまだ―文芸や商取引、教育や産業、プロパガンダや外交。それでも、生まれた製品の状態をコントロールするどころか、くまなく目くばせしようと望みうるような翻訳者や、翻訳にかかわる機関の責任者などだれもいない。そして翻訳の引きおこす結果――その用途、それがかなう利益、それが伝える価値――をすみずみまで予期しうるような関係者エージェントもだれもいない。それにもかかわらず、こういった状態や結果以上に、翻訳したり、翻訳を読んだりすることの利害を区別し、うまく説明してくれるものはなにもないのである。 本書の各章は、それぞれがカルチュラルスタディーズのかたちをとってゆるやかに結びつき、翻訳についての現行の考え方を前進させることを狙いにしている。各章ごとに、いくつもの異なる言語・文化・時代・ディシプリン・制度を行き来しながら、翻訳されたテキストの社会的な影響力を記述・評価し、翻訳プロジェクトの可能性を拡張し、アカデミズムで研究分野として翻訳を確立し、特に(それだけではないが)米国と英国において翻訳者に文化的により強い権限と法的により有利な立場を勝ちとろうと模索した。