もし仮に本当に無実なんだとしたって、無実の証明なんか無理ですよね。
何をどう提示すれば「無実の証明」になるっていうんでしょう?
無実なら無実で黙って隠れていないで表に堂々と出てきて全てありのままに言い分を話したとしたって、結局それを「信じるか信じないか」の話にしかならないじゃないですか?
"やってない証拠"なんて、一切疑う余地のない形あるものとして提示することなんか無理ですよ。
例えば「"犯行"があったとされている時、私はそこにいませんでした。別の場所にいました。」というように証明できるならともかく、そんなアリバイとかの話じゃないんだし、「やったやらない」の白黒どっちかって話ですらないですよね?
だって、お亡くなりになってしまった方が嘘を言っていたなんて思えないし、お亡くなりになってしまった方が言っていたことは「"出来事"としては現実に本当にあったこと」に違いないと思います。
被害者側にとっての加害者側は確かに加害者なのであって、被害者側が被害だと言っている"出来事"そのものは実際にあったこと、起きていたことなのだろうと思います。
加害者となってる側も、被害者が話した"出来事"は「有りもしなかった出来事を完全に創作した嘘だ」なんて言ってはいないんでしょう?
ただ、被害者にとっては被害に違いないことが、加害者側たち(直接の加害者たちだけじゃなく)の意識が、被害を被害と認めず加害を加害とも認識してなかった、"と言ってる(らしい)"ことに問題の核心があるんじゃないでしょうか?今回のこの問題については。
「こういうことは確かにあったけど、加害(いじめ)の意識は無かった。被害者にとってそれが加害でしかなかったならそれは申し訳なかった。」というような話にしかならないと思うんですよね。出てきてどんなに正直に話したとしたって。
そうやってもし正直に「加害のつもりはなかったが結果を結果として受け止めて心から反省した。申し訳なかった。」と言ったとしても、加害のつもりじゃなかったなんて嘘だとか、反省してるなんて嘘だとか、結局『言葉を信じるか信じないか』で反応が混雑するだけだと思います。
『無実なら黙ってないで証明しろ』と言う人は、どういうことを言えば、どういうことをすれば、それを"証明"として認めるのか?
逆に聞きたいですよね。
いじめは、被害者の命や人生に重大に影響し左右する深刻な問題なんですけど、現実問題として、通常の(っていうのも変ですけど)殺人とか強姦とか暴行傷害とか器物破損とかの事件と同じように「私にはその犯行が可能だったはずありません」とか「物証が私の犯行を否定しています」とかっていうような"無実の証明"が難しいというか、ほとんど無理であったりもしますよ。
そいうことも含めて、ほんとに注意深く考えなければいけないと思います。
安易な暴論で人々の感情にだけ偏った訴えかけをして煽り立てるような態度や姿勢は問題を解決しません。問題の根本を真剣に考える気の無い無責任な人の愚かな態度だと思います。
本当に重大な問題について真剣に考えているなら、事件や問題に注目を集めることで事態を動かす影響力としようとすることはまだしも理解できますが、"特定した容疑者的な人"に対して「隠れてないで出てきて公に反論しろ」なんてことを本気ではないパフォーマンスとしてでも公言するのはおかしいです。
べつに公に反論する必要なんか無いですから。
本当のことは「被害者の遺族や、事件の捜査関係者や、調査機関に対して全て正直に話すべき」であるだけで、その結果として一部マスコミに渡った情報が公開される次第になればそれでいいわけで、なぜ「表に出て来い、公に話せ」と言うのか、おかしいと思います。