室町幕府の足利将軍には領地、兵が少ないため、守護大名がやりたい放題して、最終的には織田信長に滅ぼされました。

日本史 | 歴史130閲覧

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尊氏の天下取りと、大大名の林立、と言う2つのことの根っこは実は同じです。 鎌倉時代末から南北朝の武士と言うのは実にがっついており、尊氏は領土を武士達に気前良くばらまくことで天下を取りました。 幕府を脅かすようなた大大名がいるのはそのせいです。 尊氏がしぶちんだったら他の気前の良いヤツが幕府を開いて、似たような状況になっていたでしょう。 >尊氏を倒して室町幕府を滅ぼし、天下を取ろうというような野心家はいなかったのでしょうか? いましたよー。その連中との戦いが南北朝の争乱です。

将軍権力の実態というのが何かだということだと思います。 そもそも鎌倉幕府もそうだったんですが、 将軍自体に特別な魅力とか能力があるわけではなく、 全部が家臣御家人たちの力の総数で決まるわけです。 ですので、二代頼家は寄ってたかって殺されてしまいましたし、三代実朝の暗殺も、たぶん御家人たちの多数決でそうなってしまったんだと。 足利幕府も結局はそういう組織だったんだと思います。 尊氏が建武の新政のなかで冷遇され、政争に敗れ九州に逃れましたが、 そこは本拠である群馬県とは正反対の方向だったわけです。 それなのに新政府から爪弾きされた身でありながらなぜか大軍を率いて東進することができたのは、 新政府の人気が最低だったのと、尊氏の気前の良い人柄が人気を呼んだんだと思います。 この人に付いて行ったら面白い。 きっと大儲けできるんじゃないか。 こういうことだと思います。 で、事実守護大名や地頭たちに気前よく領地を配ってしまったおかげで、 後世に祟るわけです。 ご質問の尊氏を倒して云々は、そもそも尊氏を倒して何を得ようとするかを考えればわかると思います。 建武の新政の人気が最低だったので、尊氏に付いて行けば儲かると皆が考えていたから幕府が成立したわけです。 その尊氏を倒せという勅命は南朝から何べんも出されましたし、 足利家の兄弟喧嘩や親せきの争いで内紛がありましたが、 結局は尊氏とその息子孫が将軍であり続けました。 その力の源泉は、とどのつまり全国の武士たちの多数決だったと思います。

源氏の棟梁であり、主な守護(後の守護大名)は足利氏の分家や支流、河内源氏の支流です。 足利氏の支流・分家 細川氏、斯波氏、畠山氏、今川氏 吉良氏、一色氏、渋川氏、大崎氏など 本家だから一応尊重。ただもともと本家に近い鎌倉公方は最初から反抗的。

分家や支流から見れば本家を叩けば袋叩きだし、今川や斯波氏、吉良氏は本家があるから権威がある(そもそも足利本家から守護に任命されてる)。今川とか吉良氏はほとんど江戸幕府の御三卿、細川、斯波、畠山は御三家だと思えばわかりやすい。ただ江戸幕府と違い、本家が弱すぎ、御三家が強すぎる。

問題は足利尊氏の性格にありました。 足利尊氏は物欲が皆無であり、人に分け与えることを何とも思わない人物でした。 八朔の祝いで足利尊氏のもとに挨拶にきた人物から受け取った贈答品は次々と他の人に渡してしまうため、足利尊氏の手元には何も残らなかったという話があります。 所領も同様に一人に2カ国、3カ国と守護を任せるため、大身の守護を無数に誕生させ、戦国時代で言えば百万石クラスの大名をポンポンと生み出していたのです。 その割に、足利家の直轄領はほとんど手元に残さなかったため、不安定な政権になりました。 高師直に御所を包囲されたり、様々危険はありましたが、足利尊氏が存命なうちは、まだ主従関係が強固なので崩壊することはありませんでした。 また、戦国時代の下克上の風潮が広がるまでは、貴人とそれ以外の立場の違いは遥かに高い壁であり、足利尊氏を廃して別な主人を立てようという動きはあっても、自分がなり代わって天下取りをしようという人は現れませんでした。 しかし、将軍も守護も2代目、3代目と世代を経るとだんだん言う事を聞かなくなってくるのです。 だから、足利義満はやっかいな守護を徴発して挙兵させて滅ぼすような統制をやっていました。 しかし、その滅ぼすための兵力は結局、他の守護頼みなので、その守護に恩賞を与えると堂々巡りなのです。