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西郷隆盛の征韓論についてです。

joy********さん

2009/10/3016:56:42

西郷隆盛の征韓論についてです。

西郷は征韓論を主張したとされていますが、その一方で武力行使には反対したとも言われているようです。実際のところ西郷の考えとはどのようなものだったのでしょうか?

また、大久保利通の考えや、西郷隆盛との対立軸はどこにあったのかも合わせてお願いします。

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kum********さん

2009/10/3017:30:56

当時は新政府に対する士族の不満が高まりつつある時で、この不満を外に向けさせ、日本を一つにするのが目的。そのためには、西郷自ら使節として朝鮮に行き無礼な態度で朝鮮政府に西郷を殺させてその怒りを朝鮮に向けさせようとした。

もちろん、大久保は西郷を殺させたくないし、対外的には列強につけ込まれたくないこともあり戦争を避けようとしたことで対立が生じた。

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sca********さん

2009/11/223:49:41

征韓論の背景には、まず不平士族をどうするかという、ひじょうに大きな国内の課題がありました。
西郷の本音は、不平がたまって爆発寸前の士族たちのガス抜きとして、征韓というポーズが必要だということではなかったかと思います。
が、征韓論とは政策論争ではなく、じつは権力闘争にすぎなかったのだと思うのです。

岩倉使節団が外遊中、留守をまかされたいわゆる「留守政府」は、内政で多大な成果を出していました。使節団メンバーは新政府の主流派でしたが、帰国してそのありさまをみて、このままでは自分たちのポジションがあぶないと焦ったのです。
そこで、当面の政策的焦点となっていた征韓論で留守政府メンバーに政争をしかけたというのが実情だと思います。この政争をしかけたのは、やはり大久保だったと思います(木戸はわりと純粋に、政策論として征韓に反対でした)。
乱暴にいってしまえば、じっさいのところ使節団メンバーは征韓でも内治優先でも、どっちでもよかったというのが本音ではないでしょうか。

けっきょく、大隈重信と大木喬任を除いて、征韓派の留守政府メンバーは政争に敗れて下野することになりますが、征韓派とて征韓そのものにこだわっていたわけではないように思います。
だから、こんどは自由民権運動や不平士族の反乱に土俵を移して、政府(=使節団メンバー)と対立していくことになります。『民選議員設立建白書』に署名した人は、そのまま征韓論の政変で下野した人たちです(西郷を除く)。
下野した江藤新平と西郷隆盛は不平士族の代表者となり、板垣退助は自由民権運動の象徴的存在となりました。

新政府は薩長土肥の4藩の藩閥によって成り立っていましたが、この政変の結果、薩摩と肥前が分裂し、もともと勢力が弱かった土佐は政府からいなくなり、長州の一人勝ちという様相になりました。肥前で佐賀の乱が、薩摩で西南戦争が起り、土佐が自由民権運動の最大の拠点になったのは、すべて征韓論に由来しているといっても過言ではないと思います。

si2********さん

編集あり2009/11/112:08:19

西郷の征韓論は朝鮮と戦争をしようとしたのではなく、清国(中国)・朝鮮を覚醒させて三国が手を結び、日本にとって仮想的であるロシアの南下政策を阻止し、その混乱の炎によって明治政府を作り変えようとする考えだったと思われます。

征韓論とは
明治初期の対朝鮮強硬論です。
明治初年に維新政府は当時鎖国をしていた朝鮮に対して新政府発足の通告と国交を望む交渉をしました。しかし、朝鮮は維新政府の国書受け取りを拒絶しました。
大久保らが外遊中も西郷を中心とした留守内閣は粘り強く朝鮮と交渉しようとしますが朝鮮は頑なに拒絶したので日本国内で「武力をもって朝鮮を開国させる」という征韓論が起こり、特にエネルギーをもてあましていた薩摩士族を中心に日本国内が紛糾します。

西郷は征韓論の中心で朝鮮の武力討伐を主張したように思われがちですが、西郷は朝鮮との戦争を望んだのではなく「自分が朝鮮にいって話し合って事を治める」として遺韓大使として朝鮮に渡ることを望んでいました。

西郷は「征韓論」によって島津斉彬の構想を実現しようとしたのかもしれません。

西郷はおそらく江戸時代を通じて最高の英明君主だった島津斉彬に発掘され、家臣というより弟子のように斉彬から薫陶をうけました。
西洋列強のアジア進出に危機感を抱いていた斉彬は「日本はアジア大陸に進出し、清国(中国)・朝鮮・日本の三国が手を結んで西洋列強の脅威に対抗する」という気宇壮大な構想を地球儀をみせながら西郷に語っていたようです。

西郷とも交流のある勝海舟も「朝鮮もいずれ西郷のような人物が現れて国のかたちが替わるだろう。そのときに日本は清国(中国)・朝鮮と手を結んで西洋列強の脅威に対抗する」という思想がありましたが、ついにそういう人物は現れませんでした。

西郷は自らが命を捨てる覚悟で遺韓大使として朝鮮に渡り、頑迷な朝鮮に対し日本の士族が朝鮮に攻め込むことをチラつかせつつ、開国して日本と手を結ぶことを説得して事を治めながら「清国(中国)・朝鮮・日本の三国が手を結んで西洋列強の脅威に対抗する」という斉彬の構想の実現し日本にとって仮想的であるロシアの南下政策を阻止しようとしたと思われます。

西郷は中国神話の「堯舜の世」という理想的な民主主義を日本の国家像としていましたが、維新政府は樹立早々から汚職にまみれ西郷を失望させていました。
西郷は遣韓大使として朝鮮に渡り頑迷な朝鮮によって殺されたとしたら戦争となります。
西郷は戦争を望んではいませんが不幸にして戦争になった時、日本は焦土となるかもしれません。
しかし、「その灰の中から新しい日本人が生まれ新しい国家を作り出す」と征韓論騒動で西郷は汚職で腐敗した維新政府を焼き尽くし、新しく生まれ変ることも望んでいたようです。(軍国主義の日本が太平洋戦争で敗戦し焦土の中から民主主義国家に生まれ変わり復興したようなことを西郷は考えていたようです)

西郷は幕末・維新最高の英雄ですが、徳川幕府を倒し維新政府を成立させたことで戦略家としての「西郷の役割」は終了していました。
苦心して幕府を倒し作り上げた維新政府は汚職にまみれで、理想家の西郷はやりきれない思いで絶望感を募らせていました。
西郷が遺韓大使として朝鮮に渡ることは殺される危険があり、最悪の場合には朝鮮と戦争になる可能性があるにもかかわらず西郷が遺韓大使にこだわったのは、歴史的役割を終え維新政府に絶望感を募らせていた西郷が「自分の死に場所」を求めていたということもあったようです。

外遊から帰国した大久保ら外遊組は西洋列強の諸外国を見てその脅威を肌で感じています。
その当時の日本は貧しい農業国家で産業が育っていません。また、江戸時代まで政治も国防も武士が行いその他の階級の人々は参加していなかったのに明治になって急に国民として政治に参加し国を守れと言っても無理な話です。
西郷が朝鮮に渡って殺されてしまったら戦争になります。当時の日本には朝鮮や戦争に介入してくるであろう西洋列強との戦争を行う国力はありません。
大久保らは「朝鮮と戦争をするよりも国民の教育を充実させて国民を育て、国民皆兵の近代的な軍隊を建設し産業を興すことを優先させるべき」と主張して西郷の遺韓大使に反対しました。
そして西郷と大久保の全面対決となります。

やがて留守内閣を中心とした征韓論派は破れ西郷は鹿児島に下野します。
征韓論の強硬派であった薩摩士族達も西郷を追って鹿児島へ去っていきました。
征韓論による騒動は、やがて勃発する西南戦争への序曲でした。

【補足】
大久保と西郷の対立軸を簡単にいうと
『大久保=内政優先 西郷=国防優先』
ということだと思います。

質問者様へ
<ダラダラと長くて分かりづらい回答になってしまい、申し訳ありませんでした>
m(_ _)m

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