ここから本文です

第二次長州征伐のあたりに徳川軍は西洋式の兵器との差が原因で敗れてしまったと思...

air********さん

2009/11/2901:46:33

第二次長州征伐のあたりに徳川軍は西洋式の兵器との差が原因で敗れてしまったと思いますが、
その兵器とは具体的にはどのようなものがあるのでしょうか?

閲覧数:
4,830
回答数:
2
お礼:
25枚

違反報告

ベストアンサーに選ばれた回答

2009/11/2911:21:45

第二次長州征伐(長州側は四境戦争と呼ぶ)で圧倒的劣勢の兵力(幕府軍15万人、長州側4000人)で長州側が勝てた要因は、両軍の士気の違いと戦闘力の違いでした。

ご質問の両軍の兵器ですが

長州軍は射程距離約600メートルのミニエー銃(弾丸は現在の銃弾と同じく先端が尖った長円筒状)を使用していました。それに対して幕府軍の福山藩藩兵などは射程距離100~300メートルの旧式のゲベール銃(射程距離が短いうえ弾丸が球形をしていたため、空気抵抗で弾道が途中で曲がる)を使用していました。
これだけの射程距離の違いがありますので、福山藩兵が撃っても届かない距離から、長州軍の射撃隊は極めて正確に撃ち込んでくるのですから勝負になりません。

こんな話があります。

長州軍の狙撃隊は福山藩の陣羽織を着た指揮官クラスを狙い撃ちにしてきました。その狙撃命中率は極めて高く、福山藩兵が木に枝に陣羽織を掛けて建物から差し出したところ、すぐさま陣羽織に数発の弾丸が命中したといいます。ゆえに、軍目付のある者は陣羽織を部下に着させて逃げ出したという笑い話のようなことがあったといいます。

装備も違いがありました。

長州の歩兵は軽装の軍服で統一し、余計なものは持たないように決められていました。それに対して幕府軍の藩の中には、時代錯誤とも言えるような戦国時代そのものの甲冑をまとい、火縄銃や槍で戦おうとする隊もあり、陸軍奉行の竹中重固などは、法螺貝を吹かせて突撃命令るような迷指揮ぶりでした。

また幕府は東洋一といわれた艦隊(米国で新造された1000トンの富士山丸など)を持っていましたが、長州の弱小艦隊(100トン未満の輸送艦程度)にも敗れています。

その原因は操艦技術の低さにありました。操艦術は外国人士官に短期間指導されただけで習熟とは程遠く、大型艦での戦闘は無理。輸送業務がやっとの実情でしたので。

ただ、幕府側の肥後藩が最新鋭のアームストロング砲を備えており、小倉攻略を目指した長州軍を撤退させています。

このような状況にあったので、幕府軍は長州軍に敗れてしまったのでしょう。

なおガットリング砲については1868年の北越戦争当時、日本国内には三門存在し、うち二門を長岡藩が所有していましたので、第二次長州征伐時には使用されていないと思いますが。

質問した人からのコメント

2009/12/1 01:53:25

感謝 当時は兵器の能力がそのまま勝敗を決めていた感じなのですね。
勉強になりました。ありがとうございます。

ベストアンサー以外の回答

1〜1件/1件中

wcc********さん

2009/11/2902:59:36

長州軍の主兵器はゲーベル銃などが主体で500m位までは有効射程距離でした。
ガトリング砲なんかもあったと思います。
対して幕府軍は戦国以来の槍や弓、刀。火縄銃でも200m程度の有効射程距離でした。
15万対1万なので斬り合いの合戦になれば幕府軍有利でしょうが山間地や砂浜で狙い撃ちにされ、
接近する前に長州軍は逃げるというゲリラ戦で敗れました。幕府軍は甲冑、長州は奇兵隊のあれ。
機動力に差が歴然としており、また幕府軍は藩単位の軍なので長州に恨みを持つ藩以外は戦意が低かった。
さらに幕府軍は西洋式の時計(○時)で行動する藩と太陰暦の時計(○の刻)で行動する藩があるので
一度に15万を動員できず各個撃破されました。

みんなで作る知恵袋 悩みや疑問、なんでも気軽にきいちゃおう!

Q&Aをキーワードで検索:

Yahoo! JAPANは、回答に記載された内容の信ぴょう性、正確性を保証しておりません。
お客様自身の責任と判断で、ご利用ください。
本文はここまでです このページの先頭へ

「追加する」ボタンを押してください。

閉じる

※知恵コレクションに追加された質問は選択されたID/ニックネームのMy知恵袋で確認できます。

不適切な投稿でないことを報告しました。

閉じる