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アンドレ・ジイドの「田園交響楽」にみる美的感覚の認知について。

アンドレ・ジイドの「田園交響楽」にみる美的感覚の認知について。

盲目の状態で見ることなく脳内のイメージだけで美的感覚を構築した人が、
目が見えるようになって目で見るイメージと盲目の時に構築した美的イメージが一致することなどあり得ないと思います。

赤を赤と認識する事、 青を青と認識する事などすらできない状態、触って理解する物の形状と目で見た物の形状が一致しているわけもなく、話的には無理があるのではと思います。

質問
美的感覚、美しいとか、ケガレテいるという感覚は、
先天的な部分によるものでしょうか?
後天的な部分によるものでしょうか?

時代によって異なる美的感覚にも興味ありますが、
美的感覚が生じる過程がわかるようにご教授お願いします。

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回答数:
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ベストアンサーに選ばれた回答

2009/11/3000:05:07

僕も読んだことがあり、同じことを思った(まあ、作品はそれなりに楽しめたけれど)。
実際に手術を行い、完全な盲目状態から視力を獲得した事例についての研究があったけれど、結果は、僕らが普段しているようには外界を認識できなかった、というものだったと記憶している。

質問について、そういう研究を大学時代に少ししたことがある。
僕自身の結論を先に述べると、美的感覚は、その大部分が後天的なもので、社会環境によって形作られるものだと考えられる。
美的感覚は、基本的には周囲による働きかけによって生じる(例えば、親がある事物を指しながら、子どもに対して「あれ、キレイだねー」と語りかけることで、子どもはそれが「キレイなもの」であることを知る)。
異なる社会環境で育った人間同士の美的感覚を比較した場合、一致しない部分が少なからずあることが、これを支持する(例えば、平安時代の美人像や海外の美人像と、現代日本における一般的な美人像には明らかな違いがある)。
もちろん、それだけでは説明できない要素もあるため、完全に後天的とは言えないが、多くの部分は上記のメカニズムで発生、構築されていくものと考えられる。
美術作品の評価がまちまちなことも、この考えを支持する一般的な事象と言えると思う。

また、確証はないが、現代においては、意図して「一般的ではない」美的感覚を育むような試みを行わない場合、美的感覚についての個人差は僕らが考えているより小さな値に収束する可能性がある。
理由は、情報化社会の発展によって世界は狭くなり、全く違う場所で暮らす人間同士であっても多くの情報を共有することが可能となったことによって、美的感覚を育む社会環境についても共通する部分が増加したと考えられるため。

あくまで個人的な見解なので、参考程度に。

質問した人からのコメント

2009/12/3 22:21:50

十分参考にさせていただきます。
久しぶりに感動するような回答、ありがとうございました。意見としては私と同じですが、文章表現がお上手なので構文力についても学ばせて頂きます。

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