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カントの美学(美と崇高)に関して。

nnn90sさん

2010/2/800:38:25

カントの美学(美と崇高)に関して。

yahoo!百科事典の美的範疇の項にあった「美は、対象を感性的にとらえる構想力と概念的にとらえる悟性とが相互に促進しあうところに成り立つのに対し、崇高は、巨大な対象を前に構想力の無力が露呈するときに、それを超越する理性の偉大さが自覚されるところに成立する」という記述で混乱してしまいました。

(1)私は巨大な対象を目の前にした時に自覚されるのは「理性理念」の偉大さだと思っていました。
自覚されるのが理性そのものの偉大さだとすれば、尊敬や畏怖の念がその自らの理性ではなく目の前の対象に対して湧く意味が分かりません。
もし理性理念の偉大さが自覚(?)されるのなら、巨大な対象の向こうにその絶対的全体性という理性理念を見て、対象そのものに圧倒されたかのような感覚に陥ってもおかしくないと思うのですが。

(2)美に関しても良く分かりません‥‥。良く聞くのですが、「構想力と理解力(概念力?)の自由な戯れ」って何なのでしょうか?どうしてそれが合目的性を感じることに繋がるんですか?

(1)、(2)どちらか片方だけでも良いので説明していただけると有り難いです。

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ベストアンサーに選ばれた回答

編集あり2010/2/1112:44:35

(2)について
「美とは概念なき合規則性であり、目的なき合目的性である」
これはカントの反省的判断力の分析結果である。
美が意識発見されるためには「構想力と悟性の偶然の調和による快の喚起」
が必要なのです。
この偶然の調和というのが「ア・プリオリに意識される」ため
構想力が把握した感性的なものと悟性の合法則性との間に、
概念的な強制なしに自由に遊動しているうちに生ずる、ということです。

つまり、「美は構想力と悟性の自由な戯れのなかで偶然に意識発見される」
ということです。

美はわれわれが認識できない目的のもとに「統制的に調和した合規則性」
(合目的性)だからこの「構想力と悟性の偶然の調和による快の喚起」により
「調和という共鳴」によって合目的性を感じることにつながる、といえましょうか。

(1)について
カントによれば、崇高は、対象にあるのではなく、感性的な有限性を乗り越える理性の無限性にある。
逆に言えば、崇高は、理性の無限性を自己に対立する対象に見出す「自己疎外」なのである。
もちろん、崇高は宗教的な畏怖とは異質である。
たとえば、人間を圧倒するような対象――たとえば夜空の稲光――は、その原因が科学的にわかっているかぎり、
そして人が安全な場所にいるかぎり、崇高である。
そうでなければ、それは宗教的な畏怖やメッセージとなるだろう。
このように、崇高という美的判断は、近代科学の認識と裏腹につながっている。

つまり、「尊敬や畏怖の念がその自らの理性ではなく目の前の対象に対して湧く意味が分かりません。」についてですが
カントにとって「崇高」とは「尊敬や畏怖の念が湧くこと」とは質的に関係がありません。

補足:(1)「崇高」と(2)「美」について
不正確にはなりますが、少しデフォルメして極論すれば
「美」が合目的性という形式として「感性(構想力)と理性(悟性)の偶然の調和という快の喚起」により生まれるのに対し、
「崇高」は「感性的な不快を理性で乗り越えることによる快の喚起」により生まれるのです。

長々と失礼しました。参考にしていただければさいわいです。

追補説明
いろいろと美と崇高について主観的な見解があるようで混乱されているようですが。
具体的に簡単に説明しますと
ここに「均整のとれた美女」と「均整の崩れた醜女」がいたとします。
われわれは何の目的で均整がとれているのかはわかりません。
でも、その「均整がとれた姿」を美しいと感じます。
その「均整がとれた姿」が「統制に調和している合規則性(合目的性)」なのです。
この目的なき合目的性という形式にわれわれはまず「美」を感じるのです。
しかし 、「均整の崩れた醜女」が内面的にやさしい性格だった場合、
われわれはその「均整の崩れた醜女」も美しいと感じます。
これが「崇高」という美的判断なのです。
「均整の崩れた醜さ」という「感性的な不快」を理性で乗り越えて
その「醜女の内面的美しさを感じる」、これが「崇高」という美的判断なのです。

参考にしてください。

蛇足として
「崇高な美」とは
たとえば「ナイチンゲールのような自分を犠牲にするほどの献身的な業績」
というような感性的把握の限界を超えた偉大さも理性は把握できるという
理性自らの認識能力の偉大さの自覚のもとに成立するということです。
「崇高」の概念はほぼ収まってしまった「美」の概念と異なり
今なお論争の 種になっています。
「崇高」は要するに感性的に把握できない測定できない「美」の感情を
どう認識するのか?という問題なのです。
このたとえに「巨大な対象」とか「広大な対象」とかがよく引用されるので
「美的判断」との関係が混乱あいまいになる傾向があります。
カントが疑問に感じ解明しようとしたのは
先の例にも出しましたように
「均整のとれた美女」と「均整の崩れた醜女」は対立する認識存在なのに
両方ともに「美くしいと感じる」場合があるという認識の意味をです。
なお、「純粋理性批判」「実践理性批判」「判断力批判」を段階的に
よく読めば わかるのですが、
たしかに「美しいものは美しいという目的に適っているから美しい」
「美しいという目的に適っていないから美しくないのではなく、
美しくないという目的に適っているから美しくない」という
なんというか禅問答的に各人が体得するしかないというような
「自己撞着的な解釈認識に陥る傾向」があるのは 事実です。
しかし、この解釈認識はカントの解明せんとした科学的認識から
の「理性の逃避」といえる、と思います。
この解釈認識では「崇高」が「美の範疇」に入る意味を解明する
ことは困難を極めることになります。

質問した人からのコメント

2010/2/15 04:12:54

降参 詳しい説明ありがとうございました‥‥!!崇高は「自己疎外」だというところが気に入ったのでベストアンサーにさせていただきました。kamiyawarさんもありがとうございました。

ベストアンサー以外の回答

1〜1件/1件中

kamiyawarさん

2010/2/1102:06:25

(1)については、「超越する理性」の偉大さを感ずることであり、つまり自分の理性では理解できないところに「崇高である」という感覚を抱くと言う意味ですね。この超越するということがポイントであり、自分の理性で偉大であるとまで理解できることは、まだ崇高さまでは至らないということです。それは偉大なものという認識になると。
だから自分の中の理性により、対象の中の理性の超越しているということを理解するということです。
それが純粋理性批判の目的の一つなわけですね。自分の理性というものをそのまま信頼するなと。それは超越したものを認識することで理性信頼の愚かさを知れと。
まあ、これは偉大な芸術作品を、真に偉大だと感ずる感性がなくては理解できません。仏像が人型の木だと思う者には、超越した理性は感じていないわけです。
ですが、私はカントのこの崇高に関する哲学には、キリスト教的世界を核に据えて思索して行かないと理解できないものと考えています。超越するという認識は、自分の理解を越えて、つまり神性というものがあるということだと考えています。それを対象に感ずる時、初めて超越したもの、自分の理性では届かないという認識を持ち、同時にそれは崇高なものと感じているということです。
単なる超越が崇高ということではないと。

(2)に関しては、人間の美に対する認識が感性と悟性の相互作用であるということです。感性というのは本能的、先天的に持つ能力に加え、後天的にも養われる経験的な感覚のことです。一方の悟性というのは、人間が概念的、論理的に捉える能力のことです。
だから感性というものは誰にでもあるもので、その鋭敏さに差はあれど、ある程度は普遍的なものです。鋭敏さの差は、一つは遺伝的な感覚器官の差、一つは経験の差であり、これは訓練することも可能です。強化ということですね。
悟性というのはつまりは哲学的な思考のことです。その美の構造を理解することであり、美の認識はこの感性で捉えたものと、悟性で理解したものとの相互作用によって認識するものだと。
フェノロサは法隆寺の久世観音を至上の美と絶賛しました。彼が何を感じたのか。
彼は久世観音に気品ある美しさを感じました。これが感性的な捉え方です。この感性は誰にでも自動的に生ずるものです。
次に理性というものが、その美の構造を捉えようと働く。だからなぜその気品ある美しさを感ずるのかを考えた時、フェノロサは特にその口元に浮かぶ微かな微笑に、この像の美の極点があると気付きます。これが悟性による認識ということです。そして、あるかなしかの微笑というものの意味に至ります。笑っていると明確に見せないことで、鑑賞者の中に鑑賞者が描き得る最大の美しい微笑を描かせるのだと。この悟性による美の構造の把握により、美の認識は完成するのです。
だから、この感性と悟性が共に相互作用を及ぼさないと、真の美の認識にはいたれないことを示唆しているんです。感性だけではその美を固定できない。悟性だけでは働く対象がないと。相互作用により認識ということなんですが、ここで問題はカントの言う合目的性ということです。
カントは実存はそうあるべく目的を持っているとすることで、初めて認識できるという考え方なんですね。で、要はその目的の把握が感性と悟性の相互作用によってなされるということです。
美を感じない、つまり自動的な感性で美しくあろうとしている目的を捉えなければ、美を感じないと。ただ悟性によりその実存の目的を認識することはある。
また自動的な感性により美を捉えたとしても、次に働く悟性により美の構造をつまりは美しくあろうとする目的を把握しなければ、美は真に認識されたことにはならない。こういうことですね。

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