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三方ヶ原の戦いで、家康は致命的なダメージを受けてないのですか?

rit********さん

2010/8/821:51:50

三方ヶ原の戦いで、家康は致命的なダメージを受けてないのですか?

うんこ垂らしていることしか知らないのですが、
この戦いは、思ったほど?世に言われるほど家康はダメージを受けていないのではないでしょうか。
二三ヵ月後には、兵を立て直しているようです。
信玄の病気云々と言う話もありますが、
主だった武将もそれほど討たれていないのでは?
酒井とか本田、井伊なども死んでませんよね?

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ベストアンサーに選ばれた回答

2010/8/822:32:21

徳川軍8千名、織田の援軍3千名の計11000人で、戦死者が1200名を超えたといいます。

約1割強の戦死者を出しているので、かなりのダメージを受けていることは間違いないと思います。ただ、開戦時間が午後4時頃(旧暦の12月22日)とかなり遅く、日暮れ近くに開始される戦いは非常にまれといいますので、万が一敗れた場合を想定して、夜陰にまぎれて撤退できるよう、家康が意図的に開戦時間を遅らせた可能性があるといいます。午後5時半ごろ、徳川勢は総崩れとなりましたが、家康の目論見通り日没後の退却だったため、大侵害はまぬがれたようです。

ただ、犀ヶ崖の北側に布陣した武田勢に、徳川方は夜襲を仕掛けていますので、戦意は衰えていなかったようです。

徳川方の主要な戦死者

本多忠真、大久保忠寄、鳥居忠広、成瀬正義、米津政信、中根正照、夏目吉信、小笠原安元、鈴木久三郎

織田軍の主要な戦死者

平手汎秀

徳川四天王など、徳川の主だった武将には戦死者はいませんでした。

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k1_********さん

2010/8/1117:14:46

ダメージを受けなかったといえば嘘に成る。だが、敵将小杉左近(武田信玄家臣)に「家康に過ぎたるもの二つあり、唐の頭に本多平八」と謳われ賞賛された本多平八郎忠勝が家康の配下にいたお陰で、三方ヶ原での致命的ダメージ=壊滅は免れた。家康も、「あの時もし平八郎がいなければ皆殺しにされていたかもしれない」と述壊している。平八郎は謀将や知将のタイプでない戦場の勘(カン)、猟犬が獲物の臭いを嗅ぎ分けるが如く戦(いくさ)については天才的な武将であった。この時まだ平八郎忠勝24歳の若さで物頭であり先鋒大将であった。この信玄との合戦で天竜川まで進出したが、平八郎忠勝は敵情を見、地理をみて、「きわめて御見方不利である。うかうか戦えば全滅するかもしれず、この場は決戦を避けて浜松までひきさがったほうがよい」と判断し、家康に退却を進めた。あわただしくこの案を採用し退却命令を出した平八郎忠勝より六つ上の家康、この若者の意見を取り入れたのも合戦における「合戦師」的平八郎の独特の嗅覚を信じきっていたからであった。その平八郎、家康の退却を見送った後、先鋒諸隊がすでに武田軍との接戦が開始されていた現場へ駆け戻り、武田・徳川両軍の中間へ馬を乗り入れ、徳川方に対しては、「さあ、退いた退いた」とどなりあげ、武田方に対しては僅かな手勢をもってその追撃を食い止め、退却軍の殿(しんがり)を波が退いてゆくように見事巧に引き上げた。この間、平八郎1手で武田軍の猛追を支えた。このため彼の背負っている扇の指物は敵の刀で半ば切り裂かれ、その黒具足には五筋の矢が突き刺さったが、結局は一兵を損じることなく徳川軍を浜松城に収容した。それだけの戦闘をしながら、平八郎はかすり傷一つ負っていなかったという。かような様に、敵将にも賞賛される平八郎忠勝の奮戦ぶりがあってのもので全滅を免れたわけだったのです。

f27********さん

2010/8/915:48:20

「壊滅的」「致命的」というのは大袈裟かもしれないですが、大きな損害を被ったのは確かです
戦記物の戦死者の数は誇張されているものが多くのですが(川中島戦い両軍で八千人とか、長篠戦いで武田勢一万人以上とか)、この時の徳川方の戦死者千百八十人というのはかなり実数に近いと思われます
ただし有力な家臣を多く失いながらも、部隊長クラスの武将を温存できたことで、立ち直れたのです
そこが武田勝頼との違いでした

ugi********さん

2010/8/822:59:48

多分家康が戦いを回避していた方がダメージが大きかったでしょうね
武人の名誉というやつです
領内を敵が移動しているのに討って出なければ弱虫とか軟弱な大名と見られ家臣にも見放され武田に内通する物も出るでしょうからね

zun********さん

2010/8/822:32:51

戦死者2,000人

主な戦死者
鳥居四郎左衛門(元忠の弟、十六神将の一人に数えられる)
成瀬藤蔵(木戸城主、六名城主をつとめる 旗奉行)
中根正照(松平信康の家老、二俣城主)
青木貞治(上記 中根の副将)
夏目吉信(1562年の三州八幡合戦で、殿として今川勢を6度食い止めた勇将)
など。
まあ、仰るとおり再起不能ではないようですが、やはり深刻だと
思いますよ。

さて気になる点ですが、誰をして「主だった武将」とするかです。
徳川四天王などは、生き残った者の役得ともいえますので。

例えば名を挙げている井伊といえば直政でしょうが、彼は合戦
当時11歳です。
とても戦える歳ではありませんし、仮に戦死していても、主だった
将ではないと思います。彼が有名になるのはもすこし後のこと
ですので。

shi********さん

2010/8/822:04:41

そんなことはないです。11,000ほどの軍で武田軍を攻撃しますが、死傷者を2,000程出しました。三河国設楽郡の野田城を攻略されますし、信玄の後を継いだ武田勝頼の高天神城攻略の軍への抵抗もしていません。2年後の長篠城防衛戦も500の兵で奇跡的な善戦をしますが、織田軍到着までは数だけみれば劣勢でした。

夏目吉信と鈴木久三郎が三方ヶ原で討死しました。夏目吉信は三州八幡合戦の際に殿を務めて奮戦した猛将です。鈴木久三郎には軍功がありませんが、三方ヶ原での壮絶な討死には相当な覚悟がみられます。両名とも三方ヶ原で討死しなければ、酒井や本多のような将になったかもしれません。

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