ここから本文です

小6です。後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒したらしいですがそのことを教えてください。 ...

yuu********さん

2010/8/3016:55:43

小6です。後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒したらしいですがそのことを教えてください。 どうか教えて下さい

閲覧数:
4,770
回答数:
5

違反報告

ベストアンサーに選ばれた回答

sxx********さん

2010/8/3017:08:12

建武の新政ですね。
再び天皇中心の国家を作ろうと考えた
後醍醐天皇が幕府を倒した事柄です。
この建武の新政は最終的に
不満を持つ者が多くなったため、
失敗に終わりました。

この回答は投票によってベストアンサーに選ばれました!

ベストアンサー以外の回答

1〜4件/4件中

並び替え:回答日時の
新しい順
|古い順

k1_********さん

編集あり2010/9/212:19:24

武家政治の幕府転覆を企てた後醍醐天皇は失敗し島流し(隠岐島)の流刑を受けたが、やがて脱出を図り鎌倉幕府(北条氏を滅亡させる)を倒し、王政布いた(建武新政)。当初は後醍醐天皇の声望は王朝内部などではすこぶる高かった。だが、政治機能は芳しくなく偏(かたよ)った人事や朝礼暮改(命令がその都度変更される混乱振り)の政策の繰り返しなど、又増税による大内裏建設計画&紙幣発行計画などでの非現実な経済政策等は二条河原の落書などでその無能振りを批判される有り様であった。やがて武士達の間でも不満が充満し足利尊氏などが離反するにいたり、建武新政も短命に終わった次第で、時代は南北朝へと移って行ったものです。その後再び武家政治に戻った時(室町幕府)、後醍醐天皇は吉野山の花山院に幽閉され、その後脱出(よく脱出する天皇W)した時は、京の人々は大いに驚いた。しかし、将軍足利尊氏は、一人泰然自若(たいぜんじゃく)として、「此れで天皇をお護りする手間が省けた。畿内のどこかの山中に隠れていらっしゃるのだろうが、天下の情勢は落ち着くべきところに落ち着くもの。天皇お一人に何が出来よう」と云ったという。 ついでながら、鎌倉幕府を打倒した後醍醐天皇は、群臣(多くの配下の者たち)の反対を押し切って「建武」と改元した。群臣が反対したのは、「武」の一字がいずれ兵乱を呼ぶということだったが、はたして後醍醐天皇の新政は、武家足利尊氏の反逆によって短時間で潰えた(つい)のでした。

mom********さん

編集あり2010/8/3115:11:28

鎌倉幕府は源頼朝が作り出した武士が中心の世です。
けれど頼朝の直系の子孫は3代で絶えてしまい、4代目の将軍は遠い源氏の血筋、それ以降は天皇の血筋や公家(藤原家)から名目上の将軍を立てました。
頼朝の死後、実際の幕府の権力は頼朝の妻・北条政子とその父や兄弟が執権家として握っていましたので、名目の将軍でも武士の社会は成り立っていたのです。
北条家は一族内部で権力抗争をしていましたが、それ以外にも問題はありました。
源氏が平家を倒して武士の社会を作ったのに、平家の血に連なる北条が実権を握っているのはおかしいと思う、源氏の血を引く者たちと、せっかく平家が倒れたのに武士に権力を奪われたままの天皇と公家です。
やがて、北条家が力を弱めることになったのは元が攻めてきたことです。2度の攻撃を天候の力もあって勝利しますが、相手は海の向こうの国です。働いてくれた武士達に満足な恩賞があげられません。
財政の悪化と配下の武士の不信感がでて幕府は揺らいでしまいます。
その頃の天皇家も揺らいでいました。2つの血筋(持明院統と大覚寺統)が交互に天皇につくという変則的な時代です。
やがて後醍醐天皇が即位しました。
後醍醐天皇は天皇中心の政治に戻そうと幕府に対しクーデターを2度起こしますが失敗し、三種の神器を持って奈良へ脱出し笠置山に入ります。
楠木正成は天皇を支援する兵を起こしましたが都では新たな天皇が立ちました。
後醍醐天皇の側はこの時、攻撃に持ちこたえることができず、笠置山は陥落し後醍醐天皇は三種の神器を光厳天皇に譲り、上皇となって隠岐に流罪になりました。
後醍醐上皇はあきらめず、楠木正成が再度戦いを始めると流罪になっていた隠岐島から逃げ出します。
幕府は足利尊氏を上皇達を討伐する為に出しますが、足利尊氏は源氏の血を濃く引いている武将なので子供を人質に戦ってこいと命じました。
尊氏は結局上皇側に付き、光厳天皇を京から追い出しました。同じく源氏の血筋の新田義貞は逃げてきた尊氏の子を保護しながら幕府と戦い、反幕府勢力は鎌倉を落とし北条家は滅亡しました。
後醍醐上皇は京に戻って天皇の地位に再びつき、光厳天皇が即位したことをなかったことにしました。
けれど、権力を取り戻した天皇と公家達の貴族を中心にした政治に武士たちは怒り、光厳天皇の弟を光明天皇として迎え、足利尊氏が征夷大将軍に任命されます。こうして天皇が二人いる、南北朝時代に移り変わるのです。
(楠木正成は悪党と呼ばれた武将の一人です)

hgt********さん

2010/8/3017:57:36

鎌倉幕府を倒す動きを作った、という感じです。かなり長くなってしまったので、暇つぶし程度にどうぞ。
後醍醐天皇は、幕府で働いてる人の不満や「悪党」の動きから、幕府を倒そうと計画を立て始めました。「悪党」というのは、幕府に従わない武士たちのことで、幕府への年貢を奪っていた人たちです。
しかし、さぁやるぞ!と言う前に幕府に計画がばれてしまい、幕府は天皇の側近を処刑してしまいます。つまり、味方は減り、敵は増えた状況になる訳です。後醍醐天皇はこの位ではめげませんでしたが、立場は苦しくなっていきました。要は「さっさと辞めろ」とうい圧力があったんですね。
更には側近であった人から「この人、計画立ててます」と密告されてしまいます。さすがに今度はマズイと考えた天皇は、先手を打って挙兵します。結果は圧倒的な幕府の戦力にボロ負けし、幕府に捕まってしまいます。
政府は流刑、つまりは島流しにする事で決着を図りました。新しい天皇を作れば万事解決という動きですね。しかし、そうはならなかったのです。少なからず、後醍醐天皇に賛同して戦いを行っている者も居ましたし、後醍醐はしつこいのですww
後醍醐天皇は隠岐島に流されましたが、「悪党」が後醍醐天皇に協力する動きが出来てきたのです。幕府という敵の為に協力しよう、という感じですね。楠木正成などが有名です。
こうして、再び倒幕を始めた後醍醐天皇ですが、当然幕府は追討の為に足利尊氏の軍を出しました。ここで急展開です。足利尊氏が幕府を裏切っちゃったんですよね。後は後醍醐天皇の理想どおりです。幕府の情報を知る足利尊氏によって六波羅探題を攻略しました。もう幕府本体はすぐそこです。そして、東国より挙兵していた新田義貞が鎌倉を陥落、鎌倉幕府は滅びました。
流れはこんな感じです。ちなみに楠木正成は、後醍醐天皇を流刑から助け篭城した時に、熱湯や糞尿を武器にして幕府軍に勝ったという逸話を持っています。どうでも良い話ですかねw

2010/8/3017:50:21

後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒せと号令をかけました。すると鎌倉幕府に不満を持っていた御家人衆が、鎌倉幕府を見限って後醍醐天皇の元に馳せ参じ、幕府に反乱を起こしたのでありました。
でもすんなり成功したわけでなく、何度か失敗して後醍醐天皇は隠岐島に流されてしまいました。それでも後醍醐天皇は倒幕を諦めずに虎視眈々とチャンス到来を待っていた。反幕府勢力は命脈を保っていて、後醍醐天皇は隠岐島から、彼らの助力を得て脱出に成功、幕府側の足利尊氏が寝返って倒幕勢力に加わり、新田義貞、楠木正成らの挙兵でついに北条氏は討たれ、鎌倉幕府は崩壊してしまいましたとさ。ちなみに楠木正成は御家人ではありませんが、足利尊氏・新田義貞は御家人でした。
後醍醐天皇は討幕運動の呼びかけ人といったところ。その呼びかけに有力な武士が加わって、初めて成功したのです。

あわせて知りたい

みんなで作る知恵袋 悩みや疑問、なんでも気軽にきいちゃおう!

Q&Aをキーワードで検索:

Yahoo! JAPANは、回答に記載された内容の信ぴょう性、正確性を保証しておりません。
お客様自身の責任と判断で、ご利用ください。
本文はここまでです このページの先頭へ

「追加する」ボタンを押してください。

閉じる

※知恵コレクションに追加された質問は選択されたID/ニックネームのMy知恵袋で確認できます。

不適切な投稿でないことを報告しました。

閉じる