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かねてより気になっていたので質問します。 韓信が井ケイの戦いで背水の陣を用いて...

貂飼いさん

2010/9/2502:24:52

かねてより気になっていたので質問します。
韓信が井ケイの戦いで背水の陣を用いて趙を破りましたが、趙に広武君・李左車がおり、計略が用いられず、 韓信との問答では優れた献策をしました。しかし、その後の動向がわかりません。なかなかの人物なのに何処へいってしまったのか…ご存知の方、ご教授お願いします。
あと、何故か雹の神様になってますが、その経緯も出来れば教えてくださいませ。

補足聊斎志異に記載があるそうですが、直接確認していません。新紀元社のタオの神々という本です。

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san********さん

2010/9/2810:11:43

いろいろ調べてみましたが、墳墓も複数あり、各地でも伝承内容が異なるようです。
一番説得力が有るのは下記の内容かと思います。
http://www.dylb.gov.cn/Article_Print.asp?ArticleID=225

関係箇所を訳してみるとこうなります。
「山東省広饒県大王鎮韓家橋で発見された李左車の墓とそこから出土した「漢将軍李左車」銅鼎によると、李左車は韓信とともに斉に入った。
その後、劉邦の指示でこの付近で屯田を行った。
大王鎮は北と西は燕、趙を防ぎ、南は斉都に近く楚に対峙する要衝だったため、韓信が斉王から楚王に換えられてからも、李左車は大王鎮に留められ、死後ここに埋葬された。
現在、広饒県、その中でも特に大王鎮は李姓が多く、抗日戦争時の将軍李延年、李玉堂はこの地の出身である。
彼らは李左車の子孫だと言われており、『李氏族譜』にもそう書かれている。」

ちなみに大王鎮の大王というのは漢王劉邦のことだと言われています。
李左車の子孫が大王劉邦、大将韓信、軍師李左車の功績をたたえて大王橋、韓橋、李橋を造り、それが大王鎮、韓家橋という地名になったようです。
他のサイトでは李橋村という地名も見られます。
http://www.sdwenbo.com/art.asp?id=59&type=6
また、付近に後屯村という地名が有り、ここは韓信が屯田した場所だとされていますが、実際に屯田したのは李左車かもしれません。

なぜ雹神になったかは不明です。
何を見ても「李左車死後為雹神的伝説、不知始于何時(いつから始まった伝説かは分からない)」というような内容が書かれています。
http://www.banbijiang.com/renwufangtan/lishirenwu/2010/0310/10747.h...
を参考にすると、主に河北、山東、河南付近では李左車の声望が高く、数々の伝説があると言っています。
『聊斎志異』に書かれているのもそれら伝説の一つです。

以下、『聊斎志異』の『雹神』という話しを要約します。
「王筠蒼という人が南方で官に就いた時、張天師に会いに行きました。
張天師の周りには形相が特異(髭だらけだったり服が普通では無かったり)な人ばかりでした。
天師はある一人を王筠蒼に「同郷の者だ、知っているか」と紹介しました。
王が誰かと聞くと「雹神李左車だ。今から章丘に雹を降らせに行くところだ」とのこと。。
王はびっくりして「章丘は私の故郷の隣なので雹を降らせたら故郷にも被害が出る。止めてもらえないか」と頼みましたが、天師は
「これは上帝の命令だ。雹神が降らせる雹の数は決まっている。私情で変更はできない」
と言います。
しかし王が何度も頼むので天師は雹神に「農作物には被害を出さないよう、山谷に向けて降らせなさい。」と李左車に指示しました。
王は李左車が雹を降らせる月日を覚えておき、その日に章丘に人を送り状況を確認させたところ、確かに大雹が降り河や溝は雹で埋まりましたが、田畑への被害はほとんどなかったということでした」

長くなりましたが、山東等の北方では雹害が恐れられており、それを操ったのが李左車である、という伝説です。
李左車自身が屯田の指揮を採っていて、付近の農民や村民に慕われていたのか恐れられていたのか、それとも全く違う原因で李左車が雹神になったのか、『聊斎志異』を見ても根拠は分かりません。

今後考古学等の発見が有れば詳細が明らかになるのでしょうが、現時点で雹神のルーツを見つけるのは難しそうです。

質問した人からのコメント

2010/10/1 13:00:58

成功 ご回答ありがとうございました。
脱線等はむしろ歓迎です。これからもよろしくお願い申し上げます。

ベストアンサー以外の回答

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もこさん

編集あり2010/9/2822:04:38

李左車がどんな経緯で雹の神様になったのかわかりませんが(初耳でした)
昔読んだインドの神話の漫画か小説に(ダキニ系)
インドの悪い神様ビルワットとかいう「雹の神様」がいましたが…
その辺の記載はありましたか?関係はあるのですかね?

質問に質問してしまってますね。すみません…(TT)

追記…
補足ありがとうございます
今仕事中(休憩中)なので、家に帰ってから「世界の悪魔と神々(天使)」の本をちょっとあさってみますね
李左車について載ってなかったらすみませんです(TT)

更に追記…
載っていませんでした…(孔宣と哪吒と帝釈天とかの十二天と四天王(増長天とか)と八部衆(阿修羅王とか)のみ)
アザラシさんの補足を拝見して「李世民」を見たところ
645年に玄奘がインドより仏経典を持ち帰っており太宗は玄奘を支援して漢訳を行わせている。
とあります。もともと帝釈天達(十二天・四天王・八部衆)は古代インドより伝わってますので(インドラ→帝釈天・アスラ→阿修羅王…ちなみにアスラは古代ペルシャでのゾロアスター教の最高神アフラ・マズダが原型らしいですが…)
道教と仏教が混交した中華文化圏特有のキャラが孔宣と哪吒(ちなみに封神演義編者に道教・神仙思想・仏教の知識が乏しかったと推定→編者は特に歴史知識に疎かったらしく、唐の武将李靖を殷代に登場させている→哪吒は李靖王の子供として扱われているので)
ちょっと長々と脱線してしまい申し訳ないのですが…ビルワットと李左車の関係性も頑張ったのですが…わかりませんでした。
古代インドの「雹の神」が何かの形で中国にも伝わったのか…気になって仕方ありません(TT)
結果…わからずに申し訳ありませんでした…

最終記…
sanokuangxian様!とても勉強になりました!ありがとうございます。

貂飼いさん、場所をお借りします(すみません)。
アザラシさん、北史についての質問の解答を消してしまってすみませんでした。
また「勘違い」的に捉えられたら…とか思うと…(TT)消さずにはおられず。
ただ、知恵袋を去る前に、お礼だけはしたかったので、北史は知らないですが、お礼だけでも…と思い、異民族ネタで回答しました。結果失礼な行為でしたよね。すみません。本気で去るつもりだったので(なんだかんだで居座ってますが…)。ご迷惑をおかけしました。
貂飼いさん、すみません。ありがとうございました。

編集あり2010/9/2812:04:46

『千慮一得』で知られる李左車ですか 李左車は確か垓下の戦いで項羽を誘い出すため『埋伏の毒』の計を献策していたような覚えがありますね 確か自分自身が埋伏の毒として項羽の叔父である項伯の元へ行きその後項羽を信じ込ませた~という話があったと思います 韓信の軍事顧問を続けていたのでしょう ただ危険な『埋伏の毒』の計を進言するあたり韓信に対する忠誠心が厚いし立派な人物なので韓信が殺された時に死んだ確率が高いですね

申し訳ありませんが雹の神様についてはちょっと分かりません…

補足 聊斎志異を見てもあまりヒントになりませんでしたが李左車はどうやら劉盈の補佐をしていたようです(兵の指揮を教えたり)
韓信が殺されてからは職を辞し先祖である李牧の墓を守りにいったみたいですね その後その土地で活躍して死後に雹神として祭られたみたいです また唐代には李世民に祭られています それ以外は追えませんでした

追記 う~んやはり難しいみたいですね 何から調べても八方塞りでした(苦笑)

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