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法華文句に曰く、「他経には、但菩薩に記して二乗に記せず、但善に記して悪に記せ...

疑問質問さん

2010/11/1116:08:55

法華文句に曰く、「他経には、但菩薩に記して二乗に記せず、但善に記して悪に記せず、但男に記して女に記せず、人天に記して畜に記せず、今経には皆記す」とあります。

これは、法華経でなければ二乗・悪人・女人・畜生は成仏できないと教えていますよね?
なのに何故、法華経に帰依せず他経に帰依してしまうのですか?

補足shamosikaさんへ
回答有難うございます。
私自身勉強不足を自覚していますのであえて言わせて頂きます。
shamosikaさんはどの様な資料をもとに勉強されていますか?
真理は仏様にしか解りませんが、あえて真理を求める方向で勉強されると見えてくるものが有りますよ。
そう言う点でbougainvillea1207さんを私は尊敬しています。

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ベストアンサーに選ばれた回答

bou********さん

編集あり2010/11/1213:17:46

何故法華経を信じないかは、法華経は仏説ではないとの考えによるものです。また、仏説と信じるも方便への執着と、法が心の外にあるとする外見によるものです。「正直捨方便」を仏説として信解できないのです。

「大乗経典は、菩薩達が深い三昧に入って、その三昧の中で体験した宗教体験を三昧からで出てから記述したものと見られるからである。」
「無量義処三味に菩薩が入って、そこでお釈迦様から聞いたことを説いたのが法華経です。」(平川彰)

これも、「当世の習いそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり」です。

法華経には、「正直捨方便」と説き、開三顕一を説かれますが、これは、法華経の悟りがすべての方便の教えを包む宇宙法界を遍くものであるゆえに、己心に方便の三乗を一乗と開き、諸経の真の価値(宥和一致)を覚知できるのです。

「意識もそなえ心もあるこの一尋の身体に即して、世界そのものと、世界の生起と、世界の止滅と、世界の止滅に導く道とを説示するのである。」(『スッタニパータ』)

法というものが心を離れて存在すると主張するならば外道の教えに転落してしまいます。

「少慧者を、<空なるものであること>は、悪しく(誤って)見られているために、破滅させる」(『中論』24.11)

仏法の観点から言えば「宥和一致の思想」が、法華経を悟った仏の心を離れて、どこかに存在すると主張するなら、その人は破滅してしまうことになるのです。「なぜならば、〔かれは〕<《存在しないものであること》を見ること>の糞の中に沈んでいるから」(『ラトラーヴァリー』)なのです。

正直に方便を捨て、法華経を信じる心の中にしか、「開三顕一」も「宥和一致」の悟りも生じません。これが仏説としての法華経の教えです。

では、在家の衆生は、何故、法華経を信じただけで成仏できたのかといえば、法華経の会座にいる人は大通智勝如来の時に法華経を学び下種されていたからです(化城喩品第七)。

「今、末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし」

末法今日、私たちは法華経を読んで成仏できる人はいません。私たちは、過去世に法華経を聞法(下種)したことがないため、観心(成仏のための修行方法)においては釈尊の法華経は役にたたないのです。

ゆえに、釈尊は神力品において下種仏法を上行菩薩に別付属されたのです。末法は釈迦仏法が隠没する時代ですから、上行菩薩の出現と末法は切り離せません。

天台大師は、法華文句に「長安の宮人は、此の品を請いて在内に淹留す。江東に伝うる所は二十七品を得るに止まれりと」説き、提婆達多品を添加することの正当性を主張しております。鳩摩羅什は、正法華経の七宝塔品にあるものを、なぜ、翻訳することができなかったのか、長安の宮人による何らかの請い願いにより、断念せざるをえなかったのではないかと述べられています。

竺法護の「正法華」には『提婆達多品』が『見宝塔品』の中にそっくり入っているのですが、鳩摩羅什の法華経は正法華よりは翻訳された年代が120年も後でですけれども亀ジの写本なのです。亀ジの写本は古く、この亀ジの写本に伝えられていたサンスクリットのものを羅什が持ってきたのです。(平川彰著『法華経を読みとく上』)

【追記】
竺法護訳の原本はインド伝来のものであることが平川彰氏により明らかにされています。

原始法華経の『方便品』には、すでに諸経の王として開三顕一を説き、「全ての人が成仏できる」一乗を説いています。一乗とは教の意味だけではなく、一切衆生に具わる仏性、仏智でもあるのです(平川彰著『初期大乗と法華思想』)。

訳出年代は新しいですが、「正法華経」より成立が早いと思われる古法華経の「薩曇分陀利経」には竜女成仏と関係する箇所がある上、『提婆達多品』をもって一乗の法門も完結する(なくても悪人成仏は成立します)のですから、正当な仏教教団ではないとの主張は的外れとなります。

「正法華経」二十七品の梵本の成立は世紀200年、『妙法蓮華経』の梵本の成立は世紀150年前後と推定されています(上掲書)。

また、鎌倉時代に法華経を読んで成仏したものはなく、鎌倉時代が末法であったことは明らかです。

仏法とは哲学や行動原理としての教義を説くものではなく、中道第一義諦の悟り(成仏)を説くものです。『中論』の如く、それには道理を知ることと観心(修行方法)の教えはかかせません。

法華経が仏説であるとの観点から言えば、法華経には宥和一致の教えが説かれており、それは「存在するもの」であるがゆえ、他宗への破折は法華経の精神ではないとの非難、方便の教えも法華経が開三顕一を説くゆえ法華経に通じる等の外見は、『中論』24.11の如く、<《存在しないものであること》を見ること>のため破滅への道を歩むことになります。

しかし、梅原猛氏に代表される法華経を思想と捉える立場はそれとして尊重すべきです。それゆえの批判は理解する者です。

質問した人からのコメント

2010/11/12 23:47:24

降参 判り易く納得の行く回答有難う御座いました。

ベストアンサー以外の回答

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編集あり2010/11/1122:48:49

『法華経』は「開三顕一」を説いて仏教内の宥和一致を主張していますが女人や悪人(地獄界)或は畜生界の衆生は「開会」していません。
実は鳩摩羅什の訳した『妙法蓮華経』には「提婆達多品第十二」は含まれておらず、六訳三存中の他の『添品法華経』・『正法華経』にも『提婆達多品』は欠品となっており、その原典とされる原『法華経』のハイブリッドサンスクリット本にもチベット本にも、それに相当するものは含まれていません。

現代仏教学に於いては『法華経』の「提婆達多品第十二」は羅什が翻訳した『妙法蓮華経』に中国で別本挿入された偽経です。

従って、「これは、法華経でなければ二乗・悪人・畜生は成仏できないと教えていますよね?」とは言えない訳です。

また、羅什翻訳の『妙法蓮華経』は文学的には非常に価値の高い漢訳経典であり、古来より我が国でも尊重されていますが、内容的には原典に必ずしも忠実ではなく、諸外国の仏教学者からは「創作経典の創作的翻訳」と揶揄されている事も認めるべきでしょう。

貴殿等は『法華経』に帰依している訳ではなくて、『法華経』「如来寿量品第十六」に「秘沈」されている「南無妙法蓮華経」に帰依しているのですよね。
だから厳密には『法華経』=「南無妙法蓮華経」ではないと言う事ができますね。

換言すれば究極の『法華経』とは「南無妙法蓮華経」ということになりますよね。

「日蓮聖人」も「余経も法華経も詮なし、只、南無妙法蓮華経なるべし」ですからね。

我が国の仏教は概ねは祖師仏教ですから、それは解釈仏教であり、今の仏教学の水準で言えば「なのに何故、法華経に帰依せず他経に帰依してしまうのですか?」は愚問と言う事になります。

天台教学に多大な影響を与えた「四十余年未顕真実」の文句のある『無量義経』は5世紀に中国で創作された「偽経」です。

また、中国佛教や我が国の『法華経』系の宗派の教義は各自に尊重されて然るべきものではあるが、他経を依経とする宗派を論難するのは時代錯誤と言うべきです。

参考URL。http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1049386075

恐らく諸宗の祖師達の中で『法華経』のサンスクリット本を読めたのは弘法大師空海一人だと言えるかも知れません。

【追記】
「提婆達多品」について鳩摩羅什の漢訳した原典には欠本となっており、異本には「見宝塔品」中に含まれていますが、1世紀頃に成立した原典には含まれておらず、中華文明の影響が及んでいたホータンかクチャあたりで3世紀頃に『法華経』に編入された可能性が高いのです。
羅什翻訳の『妙法蓮華経』には欠品であった理由は判然とぜず、『妙法蓮華経』に挿入されたのは羅什以降の中国に於いてです。
『法華経』を格別の経典として祀り上げて行く過程はクチャ以東に始まったと見てよく、その流れの中で当品の不可解な操作や『無量義経』も創作されたと見た方が妥当でしょう。
いずれにせよ「提婆達多品」は正当な仏教教団が創作したものではなく、『法華経』が成立した後に付加された品である事は確かなようです。

また「結要付嘱」が説かれているとされる「如来神力品」は原典に於いては「如来寿量品」の末尾に位置し、その漢訳と原典を読み比べてみても、「結要付属」なるものに末法思想を結び付ける事は不可能です。

日蓮の解釈は一解釈としての価値を有するものであると考えた方がよいでしょう。

『法華経』に限らず大乗仏典の成立過程とは是の如きものであるから、余り経典の優位性を唱えて勝劣を判じるのは意味がありません。

また、「八宗の祖師」である龍樹の思想は、全ての大乗宗派の基礎にあるものですから、取り立てて一宗派のみの正当性を担保するものでもないのです。

鎌倉時代ならいざ知らず、現代に本質問者の如く「法華至上主義」のような事を言えば笑われるだけですね。

天台や日蓮は実に偉大な仏教の先達ではあるけれども、時代的な限界を含む事も忘れるべきではありません。

現代と言う時代に、仏教徒は共に手を携えて世界的諸問題に協力して取り組むべきであり、仏教内に確執を齎す無用な宗論は控えるべきでしょう。

中村元博士は以下のように仰せです。

「仏教はブツダの悟った理法を世俗諦としてのロゴスをかりて説くのであって、教義を説くのではない。諸宗教や哲学で説く教義や原理なるものは、偏見であるとしてこれに固執する態度を誡めている。
ブツダは法の領域における普遍的な理法を言葉をかりて説いたのであって、新しい「仏教」なる宗教を創始した自覚が彼には無かったと言ってよい。」
(『中村元・試論ノ―ト』より)

*インド伝来と言っても「提婆達多品」は原『法華経』に含まれていない別系統テクストの挿入です。

それも原『法華経』が成立した場所とはかなり異なるクチャ辺りで編入されたものです。

本回答では日蓮聖人を責めているのではなく、現代における他宗論難の不当性を主張しているのです。

sha********さん

編集あり2010/11/1223:22:39

◎追追記◎
改めてこんばんは、yhsihannさん。

【どの様な資料をもとに勉強されていますか?】とのお尋ねですから・・・言いますと・・・・当方は「無間」と非難される側の信仰の者です。辿るべき資料は「その道」のものです。
【真理は仏様にしか解りません】・・・・左様です。ですので当方は「その道」に説かれた真理を追い求めているのみです。当方は当方の「道」にて真理を見つめます。どちらが優れているかと違いをつけたくなるのは凡夫の性かも知れません。yhsihannさんはyhsihannさんの選ばれた道にて真理を見つめ続けて下さい。
【真理は仏様にしか解りません】との通りです。永遠不変の姿でしょうね。像にても末にても変わらぬことのはず。
【あえて真理を求める方向で勉強される】・・・・私は法華経をかいつまんだ形では聞き及んではいます。全く知らない訳では有りません。

◎追記◎

「今、末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし」・・・末法の今では余経はもちろん、法華経自体に帰依したとて、通用も効能もなしとの仰せにて候。



こんばんは、yhsihannさん。
まず先に・・・・決してあなたに教義ケンカ(法論)をしかけたい訳ではないので、ご理解の程を。

>>法華経でなければ二乗・悪人・女人・畜生は成仏できない

畜生?・・・畜生って人間としての畜生?・・・それとも畜生道の存在?・・・畜生道でも法華経内の成仏法にて成仏できると法華経に記されているのですか?

【悪人・女人は成仏できるかどうか】についてなら、成仏可なら法華経だけではないですよ。

【女人は成仏できるかどうか】ですが、確かあなたは正宗の方?だったかと思います。法華経で方便でしかない「架空の佛」を示し顕す女人成仏の相は無理かと。

mir********さん

2010/11/1116:41:08

妙法蓮華経方便品第二に「五千起去」についての記述があります。

さて、真実の法を説こうとする釈尊の前に
五千人の四衆が立ちあがり、礼を言い、去ります。


「なんで止めないんですか?」
同席していた舎利弗が釈尊に尋ねます。

釈尊は彼らを増上慢であると指摘して
「未得謂得・未証謂証」
(未だ得ていないのに得たと言い、未だ証していないのに証したという)
と言いました。

法華文句では五濁のせいである、と
四十余年の爾前権教から抜け出せない状態である、と評されています。

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