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忠度都落に書かれている、忠度と俊成の問答は実際にあったことなのでしょうか? ...

t_l********さん

2011/1/1918:00:37

忠度都落に書かれている、忠度と俊成の問答は実際にあったことなのでしょうか?

もし実際あったことならば日記などの史料に書かれていますか?

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jas********さん

2011/1/1921:22:10

この逸話は「平家物語」の第7巻「忠度都落」からのものですが、この逸話は「千載和歌集」編纂の裏話としての面白さと、師である藤原俊成と弟子である平忠度が歌道を通じての交流の美しさから、昔から人々に愛され続けていたのでしょう。

実際に忠度が都落ちする際、俊成の屋敷を訪れ百余韻の和歌を記した巻物を託し、後日編纂されるであろう勅撰の歌集に載せてくれるよう懇願して去っていった。

後年、俊成は忠度の願いを叶え、「故郷の花」と題された「ささなみや 志賀の都はあれにしを 昔ながらの山ざくらかな」も一首を、趙敵となった忠度の名を伏せて「詠み人知らず」として載せたとされますので、実際に都落ちのときの問答の真偽は不明ですが、忠度が歌道の師である俊成に何らかの形で和歌を記した巻物を託したのは事実かもしれません。

源平合戦図画帖 忠度都落図(江戸時代後期) 忠度が俊成の屋敷を訪れたとき

この逸話は「平家物語」の第7巻「忠度都落」からのものですが、この逸話は「千載和歌集」編纂の裏話としての面白さと、師...

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1〜1件/1件中

nan********さん

編集あり2011/1/2007:17:38

語り本系の「平家物語」では,一般的に言われているような記述があります。古い形が残っている「延慶本平家物語」では,門は開かれず,忠度は門越しに和歌集を投げ込んだことになっています。

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