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北野武先生が『ウチのオヤジは在日朝鮮人』と発言した後、お母さんのさきさんが『...

n486948o_2さん

2011/1/2721:26:53

北野武先生が『ウチのオヤジは在日朝鮮人』と発言した後、お母さんのさきさんが『あんたは勘違いしてるんだよ。菊次郎さんはペンキ屋部落の出身で朝鮮部落とは関係ない』
と叱られていましたが、
あの足立区の梅島界隈ってどのあたりがペンキ屋部落でどのあたりが朝鮮部落だったのかとか今も区分分かりますかね?
もうわからないかな?

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編集あり2011/1/2722:12:52

あなたの情報はかなり間違ってます。
こちらが真相です。

> たけし在日説のそもそもの始まりは、今は無き月刊誌宝島30でのインタビューで
> 北野武は在日、北出身じゃないかって噂をよく聞くけど?との問いに
> ウン、お袋の方の家系がね…と答えたから。
> 母サキさんがハーフで自分はクォーターであると。
> ただその発言の後、母サキさん自らが冗談じゃない!あたしは純粋な日本人!
> と他誌で否定。あの馬鹿は勘違いしてるんです!とカンカン。
> たけし自身も後にあれは勘違いでした。お袋に怒られた。と述べています。


~完全日本人・北野武(ビートたけし)の家系~

「北野」家のルーツは祖母北野うし(明治10年(1877年)生まれ)に始まる。※日韓併合は1910年※
生家は徳島県の裕福な商家で、祖父が嗜んでいた三味線をそばで聞いているうちに覚えてしまった為、家族はうしに本格的な音楽教育を受けさせた。が、父の代で店が没落してからは、その芸が身を助けることになり、娘義太夫になる(明治時代のアイドル歌手のようなもの)。芸名を竹本八重子といった。引退後、田中家の令嬢の三味線の師匠をしていた際、その家で働く女中の「小宮さき」を気に入り、明治大学を卒業してセメント工場に勤めるエリートである自分の息子(海軍中尉との間に出来た私生児)と結婚させようとしたが、結婚間近にしてその息子が盲腸で亡くなった為、さきを養女とし、甥の菊次郎と結婚させた。

菊次郎は1897年生まれ。※日韓併合は1910年※
漆職人の息子だったが、父が早世し、母親の再婚相手である義父に虐待され、家出同然に奉公に出る。たまたま叔母の北野うしと再会し、養女のさきとの縁談を持ちかけられ、叔母宅に入り婿する。戦前は早世した父と同じ漆職人をやっていたが、戦後は仕事がなかった為、ペンキ屋となる。

北野さき(旧姓小宮)は明治37年(1904年)生まれ。※日韓併合は1910年※
千葉県市原市(当時は市原郡五井町)の名家小宮家(屋号信四郎)のお嬢様だったが、父親の小宮岩吉が小宮家を破産させた為、13歳で東京の名家田中家の住み込み女中となる。家を没落させた父岩吉の実家は江戸時代から続く米問屋。

■上記の通り、北野家には朝鮮人の血が入る要素は全くない。
たけしが自分は在日だと勘違いしたのには理由がある。まず上記のとおり自宅にいた祖母(北野うし)が実の祖母でなかった事と、母親のさきがよく大嘘をついたせいだった。北野家では長男長女と早世した次男の三人は大学出の前夫(婚約者)の子で、無学の菊次郎の子供は大とたけしの二人だけだと、さきはよく騙していたのだ(「兄ちゃん姉ちゃんたちと違ってお前らは出来が悪い、父親のせい」と当てこする為の嘘)。上の三人と下の二人でずいぶん年の差があった為、大とたけしは鵜呑みにしたし、たけしに至っては、中学高校頃から母親に反発し始め、大学中退後は芸能界で頭角を現すまでほとんど家出状態だった為、誤解が解かれる事はなく、中年過ぎまで母さきは再婚だったと信じていた。しかし実際には北野家の子供五人は全員が菊次郎とさき夫婦の子供である。

■2007年下半期、韓国のマスコミは長年北野武を在日として報道していたが、日本側の抗議を受けて独自調査し、北野武は純粋日本人だったと報じている。


ペンキ屋部落と朝鮮部落については知りません。御免なさい。

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