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毛利元就が安芸の武田氏を滅ぼしましたが

akb********さん

2011/2/1715:31:28

毛利元就が安芸の武田氏を滅ぼしましたが

安芸の武田氏とは甲斐の武田氏とは同じですよね?
甲斐の武田氏の一部が安芸に行ったのですか?

歴史全く分からないので・・・。

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gos********さん

2011/2/1715:46:16

そうです

武田氏の起源は河内源氏の源頼信が甲斐守に任官したことから始まり
孫の義光(新羅三郎義光)が甲斐に土着して勢力を築きました
その後鎌倉幕府の成立に伴い源氏の一門である武田氏は重用され
安芸や若狭の守護職の分家を生み出しました

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2011/2/1716:41:11

甲斐武田氏は1221年の承久の乱の功績によって甲斐に加えて安芸の守護職と所領を賜った。
最初の間は代々守護代を送って統治していたがやがて本格統治に入る。
10代目の武田信武の時に鎌倉時代が終わって南北朝から室町へ移り変わったが、この時信武は足利尊氏に付いて働いたので改めて甲斐および安芸守護職に任じられた。
この後、安芸は信武次男の氏信が入って分家し安芸武田氏となった。

ところが氏信はすぐに安芸守護を解任されてしまい、安芸武田氏は分郡守護へ転落した。
その後安芸武田氏は冬の時代をすごすが、五代目の信栄が幕府の命により若狭守護の一色義貫を誅殺すると、代わって若狭守護に任じられて繁栄を取り戻した。
しかし氏栄とその兄弟たちは安芸より若狭の経営に没頭するようになり安芸をかえりみなくなってしまう。
そこで安芸に残った四弟の武田元綱が独立して、元就の時代の安芸武田氏初代となった。

こうして安芸武田氏は安芸と若狭に分裂したが、安芸は毛利元就に滅ぼされ、若狭の方も朝倉義景に侵攻されて領国を追われている。
若狭の方はその後織田信長が朝倉氏を滅ぼしても復帰が認められず、本能寺の際に明智方に付いた為に秀吉に滅ぼされている。

2011/2/1716:17:24

両方とも新羅三郎義光の子孫で、同族です。

安芸武田の生き残りとしては。・・・

戦国時代の末期、毛利氏の外交僧として活躍した安国寺恵瓊が知られる。安国寺恵瓊は信実の従兄弟信重の子といわれ、田氏が滅亡したとき、東福寺末寺であった安芸安国寺に逃れ、竺雲恵心の法弟となった。恵心は毛利氏の外交僧としても活躍したが、恵瓊はそのあとを受けて、当代きっての外交僧となった。
毛利氏が豊臣政権下の大名になると、恵瓊も秀吉に直仕するようになり伊予六万石の大名となった。一方で、安芸安国寺の住持。また東福寺退耕庵庵主、東福寺二二四世、そして南禅寺住持の公帖を受け、禅僧としての最高位に達した。関ヶ原の戦では石田三成方に属し、戦後京都六条河原で斬られた。
恵瓊は信長の最期を予言したことで有名だが、みずからの最期は関ヶ原合戦に石田三成に与して、京都で斬られた。慧眼の持ち主であった恵瓊だったが、自分の末路までは見通せなかったようだ

2011/2/1715:51:36

甲斐武田氏と安芸武田氏は元は同族。余りにも領地が離れているので分家を建てて安芸の領地をくれてやった。兄弟で財産分与みたいな話。兄が甲斐で弟が安芸だったかな。逆だったかな。

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