春秋戦国時代には、
一応の「雅言」と呼ばれる共通語があったといわれています。
「周秦漢晋方言研究史」(華学誠:著)によると、
中国の伝説時代、
炎帝族と黄帝族が融合して華夏族ができ、
原始的漢語である、華夏語ができた、と記載されます。
華夏語は、春秋戦国時代には、
雅言(夏言)と称するようになったともされます。
戦国時代末期の「爾雅」は、
全19編、2219項目、5239個の言葉が掲載されている最初の字典とされますが、
それに掲載されている方言を分類すると、
秦晋
周韓鄭(漢代趙魏含む)
衛宋
齊魯(漢代東齋海岱含む)
燕朝(漢代北燕朝鮮含む)
荊楚(漢代南楚含む)
呉越(漢代南越含む)
の7地方に分けられるとされます。
発音などに地域での相違がかなりあったようです。
「孟子」に、
「南蛮人は鳥の舌を持つ人」
「楚語と華夏語は同属だが、違いは大きい」などの記載があります。
「春秋左氏伝」には、
「楚人は、「乳」を「穀」と言い、「虎」を「於菟」という。
「穀於菟」と言うことはできるが、「於菟穀」と言うことはできない」とあり、
楚語と雅言の違いは認識されていたようです。
「荀子」にも、
「楚は楚、越は越、夏は夏」との記載があり、
「呉越」と「楚」は別の言語習俗だと認識されていたようです。
また、「孟子」の弟子「咸蒙丘」が「齊東野人の語」を理解できたとあり、
東齊と齊で差があったようですし、
「呂氏春秋」では、呉と齊では理解が難しいとあります。
「戦国策・秦策」に、
曰く、鄭人は、加工していない玉を「璞」といい、
周人は、加工していない鼠の肉を朴といい、
同じ発音だったようで、
鄭人が璞を注文すると、周人が鼠の肉を差し出したという話が載っています。
同じ中原地域でも言語が違っていた事が覗えます。
恐らく知識人や、士大夫層は、教養として「雅言(共通語)」を理解していたものの、
重要な案件については、筆談を使っていたのではないでしょうか。
「雅言」は、当時の王朝「周(西周)」の首都があった鎬京(=長安)がある、
陝西地方の言葉が基礎になっていたとされます。
漢時代は、これが「通語」と呼ばれ
「雅言」に河南地方の方言が融合した言葉が共通語となったようです。
漢の都が洛陽でしたので、河南方言が加わったと思われます。
三国時代になると、、
士大夫層は「通語」知識が教養としてあったようです。
当然、生まれ故郷の違いによる訛はあったでしょうし、
同じ漢字でも読み方が違う漢字もあったみたいなので、
方言の激しい地方の知識人が、
詩を作る時も韻の踏み方が違って苦労したようです。
出典を失念したのですが、
劉備が三顧の礼で諸葛亮を直々に訪れた際、
彼らは筆談でやりとりをしたという話もあります。
(演義の話ですから、信憑性には疑問符が付きますが・・・。)
宮崎市定氏の『九品官人法の研究』に、
方言について、
「(東晋の)元帝の江南政権が確立すると、
南方土着の貴族は第二流の位に置かれた。
これには言語の相異という理由もあったらしい。
建康の朝廷では北方の言語を用い、南方の呉語は方言として退けられたので、
呉語の訛りのある南方貴族は田舎漢として軽蔑されたのであろう。」
「南朝の国都では北方中原語を標準としたので、
官僚になると土着人も北方官話を用いるのを普通とした。」
唐時代、辺境(営州:遼寧省朝陽県)に生まれた安録山(705~757)は、
トルコ系の北方異民族「突厥族」の出身とされます。
玄宗皇帝と楊貴妃に取り入って出世し、
後に「安史の乱」を起して唐の屋台骨を揺るがしますが、
彼は「六蕃」6つの異民族の言語を習得し、
多言語が飛び交う辺境市場での通訳である
「互市郎:ごしろう」が仕事でした。
また、かなり後の話ですが、
清朝の官僚は北京官話という共通語で会話したそうです。
北京地域の言葉と文語をベースとしたもので、
人によっては、文語でしゃべった士人もいたそうです。
読み書きが出来る支配者層ならば、文語という共通言語があったので、
口語だけの庶民よりは会話しやすかったのではないでしょうか。
中国では清末まで公用語を官話と呼び、
華北から東北に通用したものを北京官話と呼びました。
現代の標準語は北京官話を基礎とするそうです。
官話は役人の言葉の意ですが、
中華民国では標準語を〈国語〉と呼びました。
我々日本人も含めて、漢字文化圏の人間は、
漢字を見て意味を「感じ」で理解する能力があります。
やっぱり間違いが少ないのは「筆談」ということになるのではないでしょうか。