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邪馬台国の在った場所って未だに判明しないですけど、証拠となるものが無いからで...

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ID非公開さん

2005/10/321:06:09

邪馬台国の在った場所って未だに判明しないですけど、証拠となるものが無いからですよね?
ちなみに自分は奈良だと思います。弥生時代の後は大和→奈良と続くから、そう考えるのが自然ではないかと。九州説もありますが、それなら、大和時代に奈良へ移転した時に何らかの痕跡が残りそうなモンですけど、どうですか?

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ID非公開さん

2005/10/321:50:36

私は天皇家の足跡から推測しています。天皇は大きい豪族を倒した者に稲荷大明神の称号を与え、その土地を与えます。九州宮崎神宮に居を構えた天皇は先ず北九州を傘下に置きます。(豊川稲荷大明神、)和歌山から上陸して近畿1円を手中に置きます。(伏見稲荷大明神)。そこから西へ中国地方を平定します。(最上稲荷大明。)この内のどれかが邪馬台国です(日本にあるとすれば)。地名も残さず歴史から忽然と消えたとすればやはり北九州だと思います。大和にあった場合には出雲帝国を通って魏に行かねばならず、それは出来ません。出雲は地名が残っているから違う、とすれば豊川稲荷大明神だけを残して消え去った北九州の大国の可能性が高いのです。

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ID非公開さん

2005/10/308:43:41

現在、水没しています。
そのため、解明されるのは数世紀先のことになります。

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ID非公開さん

2005/10/212:37:26

青銅器(中国から伝えられたと考えられている)の遺跡は最初九州地方に多く,後に近畿地方に多く見られる様になっています.
邪馬台国が何処に在ったかは別にして,日本の文化の中心が過去(2~3世紀)に九州地方から近畿地方に移動したのは確実です.

邪馬台国の所在地の問題は魏志倭人伝が文化の中心が九州に在った頃の事を書いたのか?
近畿地方に移動してからの事を書いたのか?って事になります.

書かれた時期(史書なので過去の事が書かれている)と青銅器の分布から九州北部説が説得力在る様に個人的には思えます.
近畿に移動していた邪馬台国に行って来た役人から聞いた事をすぐに書いたのだとの考え方も成り立ちますが.

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ID非公開さん

2005/10/212:08:03

どこにあったのか、はともかく、

邪馬台国が本当に、当時、日本の代表だったのか、疑わしいと思ったことはありませんか?

邪馬台国の名を伝えたのは、中国の史書ですよね?
中国人が日本をどれだけ把握していたか、わかりますか?当時の中国にとって、日本は未知の国だったはずです。(でなければ、侵略されていた可能性があります)

中国に近い、一国の王が、中国に使節を派遣して、「日本の代表だ」と言えば、それを信じたのではないですか?
日本から来た使者も、自分の国の位置を正確に中国側に教えたでしょうか?侵略されてしまうかもしれないのに。

当時の国々は弱肉強食だったと歴史は伝えています。
侵略の危機問題を考えると、邪馬台国の正確な位置は当時から不明だったのではないか、と考えています。


私は、交通方法などを考え、九州にあった可能性が高いと考えています。大きな国ではなく、小さな集落だったかもしれない、とも考えています。

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