ここから本文です

聖徳太子が生きている時から、蘇我馬子は強大だったのですか?

dyw********さん

2011/8/1615:28:24

聖徳太子が生きている時から、蘇我馬子は強大だったのですか?

力関係はどうだったのですか?
聖徳太子の立ち位置はどういうものだったのですか。
蘇我氏と物部氏と聖徳太子の力関係はどのようなものだったのですか。
蘇我氏と物部氏はほぼ均衡していたのですか。
その後、物部氏が滅ぼされてから、蘇我馬子が急速に強大化して言ったのですか?
聖徳太子と蘇我馬子はどういう関係だったのでしょうか。
太子がなくなってから、ますます馬子の力が強大になったのですか。

閲覧数:
310
回答数:
1

違反報告

ベストアンサーに選ばれた回答

ban********さん

編集あり2011/8/1618:44:20

この質問箱でも「聖徳太子は実在しなかった」と主張するひとが山ほどいるくらいです。「実は聖徳太子の業績とされるのはすべて蘇我入鹿のやったことである、つまり聖徳太子=蘇我入鹿なのだ」という説すらあります。結局、大昔のことだから詳しいことは何も分かりません、というしかないんですが。いちおう、厩戸皇子という人は実在して、「日本書紀」に書いてあるような政治をした、という前提で話をします。
厩戸皇子は父方も母方も蘇我氏の血を引いており、いわば「蘇我系のサラブレッド」というべき存在です。彼が摂政(という名前の地位は当時なかったと思われますが、とにかくそういうポジション)になったのは、蘇我氏の強力な権力を背景にしたものに間違いありません。老練な政治家である蘇我馬子たちが企画した政策を、すべて「花を持たせる」形で厩戸皇子の手柄にしてやったのでは、という推測もできます。
のちに厩戸皇子は、そうした「操り人形」的な立場に不満を抱き、馬子と距離を置くようになり、政治の表舞台から消えます。厩戸の後半生は、斑鳩で隠遁生活を送る仏教研究者みたいになってしまうのです。
以上は「日本書紀」の記述をある程度信用しての推論です。この「日本書紀」は藤原不比等が事実上の編集長ですから、彼の「政治的意図」によって「聖徳太子像」ができあがっているのは否めません。不比等は、自分のやろうとしている「中央集権国家の確立」の先駆者として、聖徳太子という存在を持ち上げています(実は存在自体が不比等の捏造だ、という説もありますが)。その聖徳太子が、自分の父(鎌足)も参加した「大化の改新」によって滅ぼされた蘇我氏と「べったり」だというのでは格好つかないので、あえて「聖徳太子と蘇我馬子は微妙に反目していた」ように記述したのではないかと思われます。
なお、「日本書紀」は、蘇我氏の権力を実際以上に強大に誇張して描いているフシもあります。蘇我氏を「暴君」として描くことで「大化改新」といわれるクーデターを正当化しようという、これも不比等の作戦です。
なお、(しつこいようですが厩戸皇子が実在したとして)蘇我氏と厩戸は仏教導入、物部氏は神道(という言葉は当時なかったですが、まあ要するに日本古来の神)が絶対、という埋められない溝があり、その結果戦争となり、蘇我氏が勝ったのですが、この戦争に厩戸も参加しており、物部を滅ぼすのに一役も二役も買っています。力関係もなにも、身も蓋もない言い方をすれば、厩戸は完全に「蘇我の子分」です(子分が悪ければ、神輿、くらいに言っておきましょうか)。物部氏が、抜群の経済力をもつ蘇我氏と拮抗するほどの勢力があったかどうかは、何とも言えません。正直、「反蘇我グループに前に押し出された、かわいそうな町内会長」くらいのイメージで考えたほうがいいように思います。

この回答は投票によってベストアンサーに選ばれました!

この質問につけられたタグ

みんなで作る知恵袋 悩みや疑問、なんでも気軽にきいちゃおう!

Q&Aをキーワードで検索:

Yahoo! JAPANは、回答に記載された内容の信ぴょう性、正確性を保証しておりません。
お客様自身の責任と判断で、ご利用ください。
本文はここまでです このページの先頭へ

「追加する」ボタンを押してください。

閉じる

※知恵コレクションに追加された質問は選択されたID/ニックネームのMy知恵袋で確認できます。

不適切な投稿でないことを報告しました。

閉じる