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桶狭間の戦いは今川軍の損害は総大将の義本とその回りにいた武士くらいで、義本が...

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ID非公開さん

2011/11/908:47:45

桶狭間の戦いは今川軍の損害は総大将の義本とその回りにいた武士くらいで、義本が討ちとられたあとも織田軍の数倍の圧倒的有利な体勢でしたがなぜそのまま織田軍を踏み潰さ ずに撤退してしまったのでしょうか。補佐役の重臣が指揮をとって弔い合戦と織田領占領というわけにはいかなかったのでしょうか。

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spi********さん

編集あり2011/11/911:39:28

そういうことも含めて織田軍と今川軍の兵力の差について疑問がもたれてますね。信長公記などの織田軍の兵力の記述は信長とともにあった精鋭の部隊だけかもしれません。

なにせ指揮を取ろうにも今川家の有力な重臣の多くは討死しています。今川軍は圧倒的な敗北をしたわけで、浮き足だった撤退しかありえなかったでしょう。


なお桶狭間の戦いは史料がとてもすくなく、戦いの様子を記録した信頼できる史料は信長公記ぐらいしかありません。そこには織田軍が攻めかかったら、まくるがごとく今川の陣が崩れたとしか書かれていません。

「義元が討ちとられたあとも織田軍の数倍の圧倒的有利な体勢」だったかどうかわかりません。そして結果をみるかぎりそうではなかったのではないか、と思われます。

追加
今川軍の目的が上洛だったとする説は現在ほぼ否定されていますね。また今川は兵制改革のすすんだ大名家だったと聞いています。

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質問した人からのコメント

2011/11/9 23:08:35

降参 ありがとうございました。やはり疑問点があり再調査するとそうなるのですね。

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ban********さん

編集あり2011/11/913:57:48

織田軍と今川軍に、それほどの兵力差はありません。「十倍」というのは、信長を「奇跡の逆転劇のヒーロー」に仕立てて面白おかしく書かれた、後世の軍記物の誇張です。今川義元が尾張・織田を踏み潰して一気に上洛しようとしていた、というのも嘘です。この一連の戦いは、もともと今川の前線基地だった砦のいくつかが織田方に奪われたため、これを奪回し勢力を回復しようとして、今川方が進出してきたものです。つまり、この頃の織田と今川は、押したり引いたり、どっこいどっこいの力関係だったのです。
義元とて、このいくさで清洲まで攻略しようとか、信長を討ち取って織田家を滅亡に追い込もうとか、そこまでは全く考えていません。仮に義元が生きていたとしても、とてもとても、「踏み潰す」なんてところまではいかないんです。
ましてや、義元が討ち取られて、当初の戦略が全く瓦解した以上、これは被害を最小限にして撤退する以外にはありません。仮に「有能な副将」がいて、「優秀な命令・連絡系統」が整っていたとしても、やはりここは退却以外にはありえなかったでしょう。

ica********さん

2011/11/911:00:09

戦国時代の軍隊と近代的な軍隊とは組織の構成が違います

戦国の軍隊は基本的に一族を中心にした小部隊の集まりを、
有力な一族が取りまとめるという寄せ集めの部隊で、大将の
直卒部隊が必ずしも最大兵力と云う訳でもありません
したがって有力族長である大将の身に変事があれば、たちまち
其の軍は求心力を欠く結果として、夫々の部隊は敵中で攻撃から
自分自身を守るために懸命となり軍全体としての行動は期待できません

あの時の今川の重臣達も何とか損害を限定し軍全体の大崩壊を防いで、
自国領の安全地帯まで退却するのが精いっぱいだった事でしょう

さて一方で近代軍は高度に組織化されており、たとえ総司令官が戦死
するような非常事態になっても、任務を代理する要員が予め決まって
いて、其の場で軍全体が崩壊することを避けられるようになっています

例えば先の大戦では昭和18年4月聯合艦隊司令長官の山本元帥が
航空機で移動中に米軍戦闘機に待ち伏せされて撃墜戦死されました
其れを目撃していた多数の日本軍部隊の兵士は衝撃こそ受けましたが
其の事で聯合艦隊が崩壊するような事は一切なく、翌日から米軍基地に
対して激しい報復の攻撃をかけています

ryu********さん

編集あり2011/11/911:09:38

まず、今川義元の上洛の為の進軍(尾張への侵攻だったとの説もありますが)ですから、肝心な義元が打ち取られたら、進軍する意味がありませんから撤退するのが常識です。
それと、当時の戦は敵の総大将を討ち取るか敵の陣形を崩せば戦闘不能になり、その段階で勝敗は決しました。 そうなるとまず兵達は皆逃げ出しました。(雑兵の殆どは農民です。) ~ 兵農分離を進めたのは信長が最初です。
兵農分離の進んでいた織田軍でさえ、本能寺の変の直後、四国攻めの為に摂津に集結していた兵達は、織田信孝と丹羽長秀に率いられていたにも係わらず、皆逃げ出しています。
弔い合戦と織田軍占拠以前の問題で、義元が打ち取られた段階で、今川軍は兵達が皆逃げ出し戦闘不能になったうえ、補佐役の重臣達(桶狭間の時は多くの重臣も打ち取られていますが)も自分の命が危うい状態になりますから、一刻も早く撤退し自領に戻ります。(隙をついて、誰が攻め込んでくるか分かりません。) ~ 事実、松平元康はこれを機に独立しています。 取り残されて尾張に残っていたら挟み打ちにされます。
弔い合戦をやるにしても、撤退して体制を整えた後です。

beg********さん

2011/11/909:06:47

先ずは今川義元が正解です。昔は大将首を討ち取れば敵は戦意喪失で敵の負けとは言いますが、実際のところは今川勢は織田の約10倍の大軍でしたが、蛇のような細長い隊列を組んでいたので横腹を急襲されて義元の周りの副将クラスも総て討ち取られたのでしょう。

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