第二次世界大戦中、ドイツ軍のエースパイロットの撃墜数は半端ないですよね。
第二次世界大戦中、ドイツ軍のエースパイロットの撃墜数は半端ないですよね。 ドイツ軍のパイロット養成術が優れていたのでしょうか?
戦闘回数が多いというのは納得できました。ということは相手が弱かったんですね。
宝塚・18,648閲覧
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この理由は記録を追って行けば明確に結論付けられます。 ドイツ軍パイロットが、ずば抜けてこき使われたから、です。 ともかく、出撃数が多く、戦闘回数が多いのです。 体制が整って、どんどん交代できた連合軍との比較はもちろん、かなり酷使されている日本などと比べても、はるかに過酷です。 特に、長距離作戦が多い太平洋では、1回の作戦は長いですが、毎日そんな作戦は組めませんから、出撃も少ないのです。 敵に会う率も4回に1回とか、結構少ないです。 ところが、独ソ戦では、1日7回出撃、なんて状態で、作戦距離は短いですが、かなり高密度、ハルトマンの記録だと、6割くらい敵に会っています。 だから、「死ななければ」スコアはどんどん伸びることになります。 さらに、ドイツでも西部戦線では、爆撃機の行動に合わせた狭い時間、空間での空中戦なので、数の少ないドイツ戦闘機はすぐ多数の連合軍戦闘機に袋叩きにされちゃいますが、広大でしかも両軍とも地上支援中心の東部戦線では、レーダー使ってもそれをくぐりぬける余地とかあって裁量の余地も出てきます。 だから、逆に連合軍最高の撃墜数を挙げているのもソ連軍パイロットなのです。 そして、ドイツパイロットも、最初はある程度スコアを挙げると交代していたんですが、どんどんその余地がなくなり、結果的に「最後組」が最大撃墜数を記録しているのです。 例えば(記憶で書くのでイメージで…)、緒戦からのメルダース(115機)は100機を超えて飛行禁止、次のゴードン・ゴロップ(150)が150機で飛行禁止、ヘルマン・グラーフ(212)が200機で飛行禁止、この最後のグラーフの禁止命令がなんと1942年9月なんだから驚きです。 実は、この1ヶ月後に初めて初陣を遂げるのがハルトマン(352)なんです。 そして、彼の時代にはもはや飛行禁止命令が出るゆとりはなく、終戦まで戦い続けて前人未到のスコアに達する訳です。 ところが、例えばアメリカなどでは、時期の違いはあれど、50回の義務戦闘回数をこなせば除隊、あるいは志願して残っても教官とか上級指揮官になって空戦はなし、なので、当然スコアも上がらない訳です。 同じドイツ軍でも、グラーフが、この男はなんとたった2年2ヶ月で、将校でもない軍曹から少佐まで昇進、1月で64機撃墜、勲章が追い付かず柏葉騎士十字章の2日後に剣付きを受賞、飛行禁止中にもこっそり出撃してB17を2機撃墜、など、信じられない記録の持ち主で、もし戦い続けていれば、確実に500機は落とせたかも、と言われる人物です。 でも、どんなに想像しても、空想でしか無く、ドイツ軍では1944年になると、1日でエースパイロットが20名戦死するといった過酷さなので、そんな妄想には何の意味もありません。 ただ、残った史実からは、ドイツパイロットが酷使されたことで、「大記録」を達成したということだけは、確かなことでしょう。 【捕捉について】 どこの国でも、最も落とされているのは「新米」なんです。 ドイツでも、こうしたトップエースの陰に、1機も落とせず死んでいった大多数の新米がいる、だから戦争に負けているわけです。 そして、トップのハルトマンでさえ、最初の100回の戦闘では1ケタも落とせていません。 それどころか、着任日に乗機を破壊しているし、無様なエピソードもいっぱいです。 でも、なんとか生き延びて、落とす側に回れたわけです。 ところが、多くの「新米」にはこうしたチャンスも与えられなかった訳です。 先記した、「エースパイロットが戦死する」ような状況では、その数倍の「新米」が死んでいるはずです。
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