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女工哀史だの野麦峠なんかみるとひでえなと思いますが、あれって本当なんですか? ...

n48********さん

2012/3/1416:37:25

女工哀史だの野麦峠なんかみるとひでえなと思いますが、あれって本当なんですか?
当時飛騨あたりの貧しい家庭で製糸業まえに出稼ぎする女の子は、
たいてい人買いや口入れ屋に売り飛ばされて遊郭で売春婦になれば
平均寿命20歳という時代でしょう?
いくら労働環境が劣悪だとしても女工の平均寿命が20歳なわけないと思うし、優秀な女の子ならば100円女工とかで売春に頼らず実家に家も建てられたらしいから、
それなりに近代の恩恵を受けていたんじゃないんですか?

補足小谷野敦『江戸幻想批判』の中で当時の遊郭で働いていた売春婦さんの平均寿命が20歳と書いてありました。徳川時代全体でみても一般人の平均寿命が35歳くらいだったみたいですから、特に短命という
わけもないかもしれませんが、昭和も前半までは日本人男性の平均寿命は40歳だったそうです。

そういうことを考えれば当時製糸業で働いていた女工さんは恵まれていたのではないですかね?

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rer********さん

編集あり2012/3/1516:25:23

たいていの女工は13~4歳で小学校を卒業すると7~8年の年季奉公で製糸工場に働きに出たそうです。
製糸工場での労働は現在とは比較にならないほど劣悪な環境で、労働時間は14~5時間にも及び、蒸し暑さや悪臭などが漂う工場での労働は生半可なものではなく、また逃亡を防ぐため工場には鉄製の桟が張られ、宿舎にも鉄格子が付けられるという監獄にも近い状態だったそうです。
多くの女工たちは自分の賃金で実家を助けるため、また工場が休みとなる正月に両親と再会できることを楽しみに、お盆にも帰らず過酷な労働に耐えました(その結果、当時の生糸の輸出は日本の総輸出量の3分の1にもなった)。
熟練工では年収100円に達する女工もいましたが(ちなみに当時100円あれば家が建つと言われました)、過酷な労働環境と長時間労働で病気になったり命を失う者も少なくなかったようです。
明治40年頃、信州では女工千人について23人という高率の死亡推計があり、その7割が結核だったそうです。

過酷な労働環境でしたが、食事は「米食べ放題」で、満足に米を食べられない貧しい農家の娘たちにとって、女工を志願する理由の一つだったそうです。

月:(朝)大根汁、たくあん、(昼)油みそ、たくあん、(夕)ヒジキ、たくあん
火:(朝)かぶ菜汁、たくあん、(昼)金時豆、たくあん、(夕)豆腐豚汁、たくあん
水:(朝)梅干、生姜、(昼)数の子、たくあん、(夕)大根、たくあん
木:(朝)大根汁、たくあん、(昼)大根、たくあん、(夕)塩鮭、たくあん
金:(朝)菜っぱ汁、たくあん、(昼)里いも、たくあん、(夕)福神漬け
土:(朝)梅干、たくあん、(昼)豆腐汁、たくあん、(夕)大根、たくあん
日:(朝)豆腐汁、たくあん、(昼)干物、生姜、(夕)千切、たくあん
---細井和喜蔵「女工哀史」より、女工の一週間の献立-----

こういうサイトを見つけました。明治時代の俸給表です。
100円は明治10年代の教師や20年代の巡査の年俸に当たるそうです。
http://homepage3.nifty.com/~sirakawa/Coin/J022.htm

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rev********さん

2012/3/1613:30:43

ウソです、反日腐れサヨク山本茂美の捏造でッセ。


『女工哀史』は細井和喜蔵のルポです。これに輪をかけたのが、山本茂美の『ああ野麦峠』です。
これらは、左翼イデオロギーによるウソが混じってます。
『野麦峠』の長野県で言えば、体力が有り余っていて、自分の美しさに絶対的自信」を持っていた女性は結核にもならず、給金を休みの日に自分のために使っていて、ついでに工場長の娘を『ブス』だと陰口をたたいてました。
製糸の仕事も、自分家の農作業よりも楽だったといってました。
化粧をしたら、支配人の娘よりも自分のほうが美しかったと凄まじいことを語っていた。

もし、女工が結核で大量死したと言うのが本当なら、長野県の諏訪地区は若い女が絶滅して、人口が減少したはずだ。
ところが、明治以降、着実に人口は増えていた。これ一つで女工哀史がウソだとわかる。

岐阜新聞より juliana.fc2web.com/05.juli17hida.html -

野麦峠を越えた女達

高山市高嶺町と長野県堺にある野麦峠。
明治から大正時代にかけて、標高1672mの峠を歩いて超え信州の製糸工場へ、飛騨の少女達が糸引きの出稼ぎに出た。
過酷な労働条件で病に倒れ、兄に背負われて険しい峠を越える途中、「ああ、飛騨が見える」と息絶えたという少女の悲話が小説や映画になり、「かわいそうな話」として全国に広がった。

しかし大勢の糸引きを輩出した飛騨地方では、「糸引き」が「かわいそう」の代名詞ではない。
高齢化が進み、数少なくなった糸引き経験者たちからは、惨めさどころか、糸引きであることに胸を張る証言が多い。
同市久々野町小屋名の岩本あきさん(93)は、大正から昭和初めにかけて、長野県の岡谷の製糸工場へ出稼ぎに行った糸引き経験者。
13歳から8年間勤め、うち3年間は野麦峠を歩いて超えた。
「家から野麦まで1日、工場までは(途中汽車に乗って)2日掛かった。着物をはぐって腰巻きして、頭は桃割れでな、わらじを履いて越したよ」
岩本さんは農家に生まれ、6人兄弟で育った。
親類の紹介で出稼ぎに行くことが決まり、最初は不安で泣いた。
仕事は厳しかったが、1年間に現金五百円を稼ぐ優秀な糸引きとして周囲から羨ましがられた。
農村では当時、現金収入が無く、岩本さんは家の暮らしを随分助けた。
「給料を親に渡すと、神棚に飾って喜んでいた。成績の良しあしで給料が決まるから神経使うけど、毎年綺麗な反物を貰えたし、勤続5年で鏡台を貰った。
集落の同い年では、持っとる者がおらんほど高価なもんやった。今でも大事にしているよ」
同市朝日町青屋の平田やよさん(90)は、昭和初めに高山市の製糸工場を辞め、わざわざ信州へ行った。
「周りの友達が皆糸引きになって、反物を貰っていた。
私もけなるうて(羨ましくて)連れて行ってくれと頼んだ。親からは反対されたけどな」
9月の故郷の祭り見たさに友達と工場を抜け出し、野麦峠を越えて帰ってきたスリル満点の冒険談もしてくれた。
「糸引きに行って良かったなー。嫁に来てからの方が貧しくてよっぽど大変。ご飯が食えんで、ササの実(野麦)を団子にして食べたよ」
時代が違うのかもしれない。
しかしこれらの証言もまた、糸引きの真実に違いない。

「女工哀史」に代表される、つらく厳しかった面ばかりがことさら世の中に強調されてきた飛騨の女性史。
新・高山市がスタートした今年、しないの野麦峠を越えた飛騨の女性達の、強く、明るく、前向きに生きた足跡を紹介する。
高山市千鳥町、飛騨・世界生活文化センターは、飛騨の女性史をテーマにした企画展「ひだの青春 姉さまたちの132年」(岐阜新聞・岐阜放送共催)を16日に開幕。
初日午後1時30分から、シンポジウム「野麦峠を越えた女性たち」を開く。
企画展は9月31日まで。



加えて、女工を結核で死なすよりも、治療して治して働かせたほうが生産性が上がるのは当然だ。
としたら、工場も結核とその治療には最新の注意を払っていたことがわかる。



※※※せっかく女工を『ベテラン』に育てたのに、結核で殺したら、金のムダでしょう。




医療で助けた方が、生産性が上がるのだ。
いちいち新米連れてきて、糸取りから教えていたら、金にはならない。

『あそこの工場に行ったら、結核で死ぬ』とウワサが立ったら、だれも働きには出かけない。
労働者が集まらなかったら、工場は操業できない。
だから、当時のレベルは低くても医療行為はしていたし、結核の予防もしていた。
工員への福利厚生もしていたのだ。

下がよく調べて書いている。

d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20051029 -

kaz********さん

編集あり2012/3/1602:21:39

『ああ野麦峠』を観なさい。図書館に行ってみなさい。
あなた休みなしの18時間労働なんてできる!?
彼女たちの犠牲なくして、近代日本の発展はありえなかった。
粗末な食事と5時間ほどの睡眠で際限なくはたらかされた。
男と女の身体の作り、仕組みが違うということを忘れないで。
明治期の一般人の食事の基礎カロリーを調べてみて。
牛肉、豚肉、鶏肉,魚、卵さえ食べられない。食べさせてもらえない。
劣悪な労働条件。飯、漬物が3食、たえられますか?

for********さん

2012/3/1517:40:53

私も学生時代に女工の悲惨さを結論としたレポートを書こうと思い調べた事が有ります。
詳細は忘れてしまいましたが、当時の賃金水準や労働環境と比較しても相当恵まれており衝撃を受けた記憶が有ります。

近代の労働者争議や組合活動の活躍により現在の労働者環境が守られる様になったと言うアピールに他ならないと思いました。

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ID非公開さん

2012/3/1418:58:20

平均寿命20才というのは、どこから出てきた話ですか。
それは間違いで、そんなことはありません。

工女と言うと飛騨が連想されますが飛騨ばかりではなく、全国各地の女性が製糸工場で働いていました。
女工哀史というと、まず長時間労働のことがあげられますが、これは製糸業ばかりではなく、当時の労働環境はみんな同じでした。
当時は13~14時間労働は当たり前だったのです。今日の8時間労働の基準から判断してはいけません。

製糸工場の労働環境が劣悪だとしたら、なぜみんな働きに行ったのか。そんな所に行かなければ良いのに。
当時の農民(特に小作人)が米だけの白米を食べれるのは、死ぬ時だけの、一生に1回だったそうです。
普段は、雑穀を混ぜたご飯だった。

それが、少女たちが製糸工場へ行けば、白米のご飯を食べれた。
3度の飯がご飯のうえに、働けば給料ももらえた。
だからみんな製糸工場へ働きに行ったのです。

当時の農村は、潜在的に剰余労働という状態で、子供たちを食わせる為には働きに出すしかなかったのです。
農村は人口が多すぎたのに、仕事は農業だけで食っていけなかったのです。

確かに、女工哀史のような一面もありましたが、そんな悲惨の例ばかりではなく、最近の研究では良い面や評価されるべき面の研究が進んでいるようです。
娘が持ち帰る現金で、親は小作料をようやく払えたという現実もあったのです。

最近は、「女工哀史史観」の見直しが必要だという考えがあるのです。

(おもに「繭と生糸の近代史」より)

bek********さん

編集あり2012/3/1417:12:47

実は私の母が若い頃に紡績工場に勤めていたことがあるらしいのです。母はもう亡くなっていますが。母には姉が居て、その姉は5年間くらい女工として働いていたそうです。その姉は20歳くらいで死亡しています。死因は結核ですが、平均寿命20歳と言うのは、あながち嘘ではないと思います。母は嫌(工場の環境)だったので、帰って来たと言っていました。長時間労働、結核の蔓延、紡績の綿埃が工場内に充満していた。

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