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広開土太王の歴史背景について。

ntr4711さん

2012/5/1023:12:15

広開土太王の歴史背景について。

先日、ふとこのドラマを目にしたのですが、
たまたま倭という国が度々登場する回でした。

倭というのは、日本を示すものと思いますし
現在でも日本を指す言葉として当地では認知されてるようです。
(作中でも、海を越えてなんども攻めてきたとのセリフあり)

しかし、このドラマの舞台である「高句麗」時代は
西暦600年頃だと思います。そして朝鮮半島における
日本からの出兵は、一般的に文禄・慶長の役を指すと思います。
(いわゆる秀吉の朝鮮出兵。西暦1600年前後)

この7世紀頃に、倭(いわゆる日本)が朝鮮半島へ出兵した
事実というのは本当に存在するのでしょうか。
あるいは日本の記録に残っていないだけなのでしょうか。

当時の日本は飛鳥時代であり、国内の混乱のが大きかった
ハズなので、腑に落ちないところがあります。
詳細をご存知の方、ご回答いただければ幸いです。

なお恐れ入りますが、特にドラマの内容を肯定される場合は、
できるだけソース(情報元)のご提示を頂ければとおもいます。

よろしくお願い致します。

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ousinkeiさん

編集あり2012/5/1310:05:42

高句麗の広開土王(以前は好太王といった)は在位が西暦391年~412年の人物で、中学・高校の歴史で習います。
なぜなら、有名な広開土王の碑というのが今も残っているからです。
これは、414年に、高句麗の長寿王が父広開土王の業績を顕彰するため、王の墓の近くに建てた巨大な石碑(高さ6.3m)で、石碑の4つの面に、1775文字が刻まれています。場所は現在の中国吉林省集安県にあります。
実際に5世紀に彫られたもので、非常に貴重なものです。
その碑文中に、「百残・新羅、もとよりこれ属民にして、由来、朝貢せり。しかるに倭、辛卯年をもって来たり、( )を渡りて百済を破り、新羅を( )( )にし、もって臣民となせり」(原文漢文( )は不明字)。
辛卯年は、西暦391年、百残とは百済をさげすんで呼んだ名、倭は日本です。碑文の解釈は昔から論争がありますが、だいたいの意味は、「高句麗は、もともと百済や新羅を属国としていたが、倭が来て百済と手を組み、新羅を圧倒し、さらに高句麗まで攻めてきたのを広開土王が退けた」というようなことです。高句麗を優位に書いてますから、その分を差し引いて考えますが、だいたい史実と考えられています。

好太王(広開土王)碑
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%BD%E5%A4%AA%E7%8E%8B%E7%A2%91

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2012/5/1100:00:07

私なりに調べてみましたが、その時代にも日本(倭)は朝鮮半島に出兵した記録があるようです。

http://www5b.biglobe.ne.jp/~korea-su/korea-su/jkorea/nikkan/kodai-c...

ただし、その時代の書記は、中国・朝鮮・日本それぞれバラバラの内容で、どれも時代考証できるものではないようです。

まあ、そんな古い時代の歴史は誰も知らない(生き証人がいない)ので、確証なんてもてるわけないですけどね。

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