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天智天皇について

blu********さん

2012/5/1703:58:37

天智天皇について

・乙巳の変(大化の改新)の中心人物
・白村江での敗北(これは仕方ないのかな?)
・古人大兄皇子を殺害(これも仕方ないのかな)
・大化の改新の同志、蘇我石川麻呂を自殺に追い込む(そういえば、冠位十三階の制に反対して蘇我石川麻呂は古い冠をかぶり続けたという話を聞きました。なぜですか?? 蘇我氏が別格あつかいのほうが良いのなら、なぜ石川麻呂は大化の改新(乙巳の変?厳密な用語の違いはわかりません。)に協力したのですか。)
・孝徳天皇と不仲、天皇を置いて飛鳥に帰る
・中臣鎌足との不仲説(鎌足の病床で和解したという話を聞きました。信頼性はありません。なので、これは違うかもしれません)
・弟(なのですか?)の大海人皇子との対立? 壬申の乱を引き起こす。

これだけ見ると、天智天皇はトラブルメーカーですよね。どれだけの人と仲たがいしてるんだ!と。 でも、この話を記した日本書紀は藤原不比等が編集責任者です。天智天皇が悪者なら、それを手助けした藤原鎌足も悪者ですよね。不比等は、鎌足を、そして天智天皇をどのような存在として書きたかったのでしょうか。

補足皆様ありがとうございます。
ご意見すばらしく、私ではベストアンサーを決めかねますので、投票にさせていただきます。

九州倭国をすべて信じることはできないのですが、そう考えると納得できます。

殷の紂王・・・やはりそこまで行き着いてしまうのですね。。

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祐井さん

編集あり2012/5/1705:36:19

日本書紀は、天武側に都合よく編纂されてます。

「天智」とは、実は悪い意味なんですよ!
http://mugentoyugen.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_e200.html

書紀編纂時に「天智」の諡号が決まっていたのかどうかは知りませんが、
天武の治世~奈良時代(天武朝の時代)には定まっていたはずです。
ということは、天武派にとって、天智帝を悪者に描きたかったのでしょう。
(天武朝の正当性を確立するには、天智帝は悪者のほうが都合イイ)

あと、不比等が書紀編纂に関与していた、とは初耳です。
不比等ほどの実力者なら、政府のやることに影響を及ぼすことは可能だったでしょうけど
天武帝の在位時には、天智派ということで“干されて”ましたから・・・

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pin********さん

2012/5/1708:13:32

藤原不比等が死去(720年)する4か月前に、撰上されたという「日本紀」は、現在私たちの見ている「日本書紀」ではなく、
720年以降に、「天智―藤原系」により大改編を受けています。
720年に撰うえされた「日本紀」は、「焚書」にあっています。
740年の時点では、すでに「日本紀」と「日本書紀」が併存していたといわれています。
その後、「桓武」の時代に、大改編が行われ、現在の「日本書紀」の形のなったものと考えられています。
列島を代表する、最高権力者は九州島に「都」を置いていた「九州倭国」です。
「倭の五王」-「筑紫君磐井」ー「九州倭国王阿毎多利思北孤」-「筑紫君薩野馬(大皇)」-「日本書紀が言う天武(大海人、大皇弟)」-「高市(大皇帝の息子)ー「弓削(高市の息子)」ー「文武(草壁と阿閇の子ではなく、高市と阿閇の子)」-「聖武(高市の孫)」-「孝謙称徳(聖武の娘)」です。
「聖武」が男子の後継者に恵まれなかったのと、「天智ー藤原系」との暗闘の結果、「称徳、孝謙」の代で「九州倭国系」の皇統が断絶してしまいます。
では「天智」とは、いったい何者でしょうか。
「天智」とは、642年に百済国内で政変があり「反唐派の百済義慈王」により国外追放を受け列島に亡命してきた、「親唐派の百済武王の息子である翹岐王」です。
速い話、「九州倭国系」で列島の歴史が展開している中に、「割って入ってきた」と言う状況です。
ですから質問者の方が言われている「642年の乙巳の変」、「663年の百済復国運動への参戦(白村江)」には「皇極(母)ー孝徳(母の弟)ー斉明(母重祚)ー天智称制ー天智(本人)」らは関与していません。
「天智」は、「九州倭国」が「白村江」で「唐ー新羅の連合軍」により大打撃を受け、戦後処理をしている真っ最中に、668年、
百済からの亡命王族や遺民を結集して「近江」に政権を樹立します、「天智の乱」です、だから政権は「九州倭国」の承認など得ていません。
671年に「唐の捕虜」になっていた「九州倭国王筑紫君薩野馬(皇帝)」が帰還してきます、そこで「大海人(大皇弟)」に「近江朝」の討伐を命じます、これが「壬申の乱」です、もちろん「九州倭国側」の勝利です。
「壬申の乱」後も「九州倭国」が列島の最高権力者です、その後「九州倭国」は「新益京(藤原京)」に遷都してきます、
ですから「大宰府」はその後「遠の朝廷」と呼ばれるようになるのです。
でも、最初に書きましたように「「孝謙称徳」の代で、「九州倭国系」が断絶して「光仁(天智の孫)、桓武」と「天智系」に復権します。
さあ大変です、「天智系」とすれば、「天智ー大友」で一旦潰されたとは「歴史書」に記述することが出来ません。
ですから、720年の「日本紀」は九州倭国系の史書」です。
天智系が改編を加えた「日本書紀」は、668年に「天智」が急に「天皇に即位」したという訳に行かないので、「推古」の後に、
「舒明(父)ー皇極ー孝徳ー斉明ー天智称制ー天智」とし「天武は天智の弟」-「持統は天武の皇后」-「草壁」-「文武」-元明」-元正」ー「聖武」ー「孝謙、称徳」とつないで、「天智系」は「父、舒明」から、断絶なく「一系」ですよ、と言う「史書、日本書紀」を編纂(改竄、改変)したのです。
だから、今私たちの見る「日本書紀」は、難解で、矛盾やほころびの散見される、訳の分からない史書になっているのです。

sto********さん

2012/5/1706:19:42

夏目漱石が随筆で、天智天皇の諡号は実はかなり悪い意味なのだと著していたと記憶しています。
日本書紀については、藤原不比等が編集責任者という解釈で宜しいですよ。
実際のところ、この時代の歴史はまだ定説がなくて私も本当に我が国の歴史を知りたいです。
天智天皇はうまく中臣鎌足に利用された人物でその策謀に引きづりまわされた一生だったかもしれません。
日本書紀は万世一系の大王家とする為に、色々と話しをつなぎ合わせたとは思いますが日本の正史です。

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