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昭和の年24年以降から10年間ほど終戦から5~6年ほどですね。 あのころは...

asa********さん

2012/5/2715:28:28

昭和の年24年以降から10年間ほど終戦から5~6年ほどですね。

あのころは商店も少なくあってもさほどのものもなく行商の叔父さんおばさんが

【荷物をせに】あるいはリヤカーにのせ一軒一軒訪ねてうりにあるいて

おりました。生活用品から食品 下着のはてまでうっておりましたね。

子どもたちも珍しくて売り物を 目をサラのようにしてみてました。

お正月近くになると馬そりに大きなストーブデ薪をがんがんもやし

セイロをつんで餅つきやさんが回ってきます。母は前夜のうちに餅米をとぎ

あんこを作りヨモギもふかすばかりにしてありました。

都会に住んでいる人たちは そんな経験はありませんでしたか?

ふいと昔のことなどが思い出されつい ながながとかいてしまいました。

皆さん幼いときの暮らしをおもいだされ何でも宜しいのです。

たくさん描いて子供のころの暮らしをおしえてください。・・・3丁目の夕日・・

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ベストアンサーに選ばれた回答

tri********さん

編集あり2012/5/3018:13:56

近くの神社、お寺のは定期的に市が開かれそこで露天で、服から雑貨、おもちゃ、なんでも揃う時代でした、自転車でリヤカーを引きながら夏はアイスキャンデー、紙芝居屋、豆腐売り、パンまで売りに来ていました、子供は、鍋をもって、買いに行かされました、駅の裏には闇市があり、外国製品、中古品まで珍しい物から舶来品まで揃っておリ外国製のライター、進駐米軍放出の真空管まであり、真空管を売っているおじさんとよく真空管の話をしました

家では家庭用5球ラジオで朝ラジオ体操をしてから学校へ通い、毎朝の朝礼で二宮金次郎の拝礼、軍隊式行進があり、機銃掃射で穴があいた校舎で、すきま風がひどく石炭ストーブだからやっと部屋が温まる状態でした、夏は学校指定のふんどしを着用して、プール指導がありましたが、1学級55人と生徒数が多すぎてプールを壊して、仮設プレハブ校舎が作られ、それまで同じ教室を午前中は低学年、午後から高学年が使用する二部授業でした

都会の学校では空襲で全焼した上に地方からの労働者が集まり、教室不足が深刻で予算がないので生徒一人あたり3千円、現在の貨幣価値で4万円負担しなければならず、その施設拡充寄付金が負担できない家庭は兄弟でも別の公立小学校へ通う越境入学して逃れる家庭が多かった、貧しい家庭の子供は家の手伝いで学校へ通えないので小学校でも落第していた
戦災孤児もいました、白衣を着た足がない傷痍軍人がアコーディオンを引きながら寄付金を集めていた
戦争未亡人は駄菓子屋、教師、パチンコの景品交換所にいた都会でしたが焼け野原で工事現場で米軍機が落とした爆弾が見つかると避難しなければならず、電力不足で15アンペアまで統制されていた、都会では、闇市、パンパンガール(米軍相手の娼婦)、ホルモン焼き(現在の焼肉店)の露天が並び、銭湯で白黒テレビを見れるのが楽しみだった、路地裏で、ベーゴマ、面子、ビー玉、など遊んだ、防空壕遊びが一番楽しいかった
当時は立ち小便臭い、吸殻など汚い、バラック小屋のホームレス、ジープに乗る米軍兵士、治安も悪く、とても夜が外へでられない時代でした、赤線地帯と言われる売春街があった

檜風呂でしたので毎日、兄弟交代で薪を割り、焚付、、ご飯は釜で薪でたいていたので、お焦げでつくるオニギリは旨かった
くみ取り便所は外にあり電気がないので、夜トイレに行くのが怖かった、蛙の鳴き声を聞きながら鼻をつまんで用をたした

もちつきは家族総出でしていました、でも毎日の毎日餅が1箇月続くと見たくない、食べたくない、海苔が高級品の時代です、醤油をつけて火鉢で焼きます、あられの餅菓子を自宅でつくるこれしかオヤツが無い時代です、銭湯で風呂上がりに飲む冷えたラムネが最高に贅沢でした、朝は漬物、味噌汁、ご飯だけ、昼は冷や飯、漬物、お茶ずけ,夜はコロッケが最高の贅沢でした、卵は高額で、遠足のときしかゆでたまごを持たせてもらえない、チョコレートはパチンコ店しか販売していない時代です、しんせいのたばこが50円で買える時代です、あんぱん5円、床屋が100円の時代です(もちろん板垣退助の百円札)
貧乏子沢山、ほしがりません大人になるまでは、みんな狭い長屋で夢だけは大きく早く大人になって美味しい白米を食べたかった、毎日麦飯です、白米は配給統制品のため購入量が制限されていた、子沢山の家庭は栄養失調になる、田舎の親族が都会へ働きに来て住むところがないので親類の家に同居するため寝る場所がなく、子供は押しいれで寝ます、夏は暑い、冬は暖かい

質問した人からのコメント

2012/6/1 14:41:22

沢山の回答ありがとう御座いました、懐かしくて胸がいっぱいになったり そいうこともあったな~など忘れてしまいそうなこともあり記憶しておくこともたいせつなこととおもいます。みなさんにBA をもらって欲しいほどなのですが規約があり 申し訳ありません
貧しい暮らしの中で心温まる風景もあり 子供の心の純粋さを感じました。皆様ありがとうkoresikaomahenさまrhscr082さまtripoliolderさまありがとうござました。

さまr

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ttm********さん

2012/5/2914:14:24

こんにちは。

昭和24年生まれです。思い出すものは一杯ありますが、やはり脳裏から離れない光景があります。祖母が日本髪結っていました。縁側で何日かに一度柘植櫛で髪をすいて貰って髪を結いなおしていましたね。うっとり見とれてそのまま居眠りをした私は縁側から転げ落ち、踏み石に頭を強打して血の海、今も傷跡くっきりです。

都会と言えど、やはり行商のおじさん、おばさんは来ていましたよ。買い物はほとんど御用聞きが主流で、たまにお使い行かされても電話のない時代、必要なものを伝えに行くお使いであったりでしたね。

紙芝居や猿回しのおじさん、蛇使いのおじさん(これは怖かった)、当て物だけの駄菓子屋等ありましたが、今じゃ考えられないいい加減なお商売が多かったですね、普通にまかり通っていた平和な時代?でしたが、やはり懐かしくていい時代と思えます。

kar********さん

2012/5/2822:28:33

真っ暗になるまでれんげ畑で遊び、白いタイツに草の汁をいっぱいつけて帰って母に叱られた・・www

ncs********さん

2012/5/2814:45:39

私は昭和24年生まれです
本当に何も無かったですね
思い出といえば小学校の時に飲んだカンニンソウが嫌いだった事
コーヒー牛乳が大好きでお腹いっぱい飲みたいと思った事
それから今でも時々思い出してはあれは何だったのだろうと思うことが有りますそれはお祭りか?人が沢山集まった時に小屋を作ってその中に居る人を珍しい者として見るような事をしていた小屋が有ったのです
私は幼かったので記憶が定かではありませんがマイクで「親の因果が子に酬い・・・・」というような出だしで呼び込みをしている所がありました怖くて怖くて未だに何か解らないのですが強烈に印象に残っています
あれは何だったのでしょうか、こんな事あっては成らない事でしょうが身障者の人を見世物にしていたと言う事なのでしょうか
これは私の思い違いであって欲しいと思います
でもあの時代は生きることだけで精一杯だった様に思います

pok********さん

2012/5/2812:05:46

世間は、熊本・新潟水俣病、富山イタイイタイ病、四日市や川崎喘息、全国で光化学スモッグ。
カネミ油脂、森永砒素ミルク、アザラシっこなどの奇形児。
住んでいた田舎でも、光化学スモッグ注意報で、体育授業が屋内に変更になったりしてた。農薬散布を盛んに行っていた時期で、田畑にはどじょうも蛍もいない。
ヘドロのどぶ、紫色の一級河川。
工場の廃材の中で宝探しみたいな遊びをしていた。
初めて蛍を見れるような環境になったのは高三の時だった。

tam********さん

2012/5/2809:32:15

遠い昔のさむーい思い出です。田舎でしたが紙芝居が年に2~3回来た。

アイスクリームは当時なく、アイスキャンディーだった。それを買った子だけ
紙芝居を見ても良い。私には小遣いなんてないので、当然見られなかった。

そう云う子たちが他にもいて、集まって草野球で気を紛らわしました。
西岸良平のストーリーはジーンとくる。孫に過保護の今の自分に飽きれる。

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