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中国で唐を開いたのは漢民族ではなく鮮卑族(モンゴル人?)ですよね?ではなぜ、...

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ID非公開さん

2012/7/1601:47:20

中国で唐を開いたのは漢民族ではなく鮮卑族(モンゴル人?)ですよね?ではなぜ、征服王朝に含まれてないの?

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yuu********さん

編集あり2012/7/1613:37:20

ヴィットフォーゲルの「征服王朝」の定義は、

「本拠地を維持したまま、中国を支配する王朝」とされます。

この「征服王朝」にあたるのは遼・金・元・清ですが、いずれも中国進出以前からの拠点を首都、あるいはそれに近い拠点として保ちつつ、中国統治を行っているわけですね。

遼:首都は上京臨潢府(契丹族の拠点)

金:首都は按出虎(アルチュフ)=会寧府(生女真の拠点)

元:首都は大都(北京)だが、領域内にフビライの父・トゥルイが相続したモンゴル高原(本拠地)を含む

清:首都は北京だが、へトゥアラ(興京)、ムクデン(瀋陽)などの従来からの拠点を保持


それに対して、唐の場合は本拠地という概念がかなりあいまいです。

唐のルーツとなる鮮卑族は、拓跋・慕容・宇文・段部・禿髪・乞伏などの小規模諸族に分かれており、その発祥の地は現在のモンゴル高原以北とも、トルキスタンや中央アジアとも言われており、どこから来たのかすらも不明です。

しかも唐ぐらいの時代になると、鮮卑族本来の拠点は突厥やウイグルの支配を受けて、中国から外れている場所が多いんですね。

加えて、唐の場合は鮮卑系貴族の連合体からスタートしつつも、武周革命(690年)で則天皇帝のクーデターを受け、貴族・皇族が多数失脚あるいは処刑されてしまい、以後は科挙官僚と宦官を含む近臣へと政治の軸足が移っていきます。

したがって唐も玄宗時代(712~756年)になると、鮮卑系王朝としての色合いが薄くなってしまい、結局は漢化してしまったというわけです。

「本拠地を他部族に奪われてしまった」「統治者階層が異民族から漢族へ移行した」という点が、唐王朝が「征服王朝」とは呼ばれない理由なんでしょうね。

ベストアンサー以外の回答

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ray********さん

2012/7/1717:24:14

この「征服王朝」という概念を提唱したヴィットフォーゲルや、考えによるところ大きいですね。

彼の考えの中では、一口で異民族政権とは言っても、大きく二つのタイプに分けられていたようです。一つは質問者様が言う「征服王朝」型であり、遼、西夏、金、元、清などがその典型だと言えます。そしてもう一つは「浸透王朝」であり、五胡十六国期の諸国や北魏などの北朝諸国がその典型です。

では、この二つの分類で何か違うかと言うと、王朝の政策に漢化を積極的に取り入れるか否か、という点に尽きると思われます。つまり、国としての大元の制度の重点が、漢民族を漢民族のまま見做し、その民族(漢民族)の習慣や文化をそのまま取り入れるか、自民族の文化を最大限保護しつつ(強制的かどうかは別にして)漢民族に自分達の習慣や文化を受け入れさせるかの違いで分類していたと思われます。

こういう観点から見ると、元や清などはまさに一つ目の「征服王朝」に見事に当てはまりますね。元王朝では、元来の漢民族の基本国策である儒学を用いての政治体制を全否定したうえに、身分差別制度を用いてモンゴル族の優位を保とうとしていたし、清王朝では、自分達の生活風習である「辮髪」を漢民族にも強要していた政策をとっていたので、あくまで漢民族を被征服民族として見做している節があります。漢民族の文化を選択的に取り入れるとともに、自分たちの本来の制度や文化を最大限保護し、場合によってはこれらを漢民族にも強要する、というのがこのタイプの最大の特徴だと思います。その他の王朝も、漢民族に対する強要こそは少ないが、やはり自民族の文化や制度の保護を最大限行っていたようです(遼や金の二元政治体制など)。

これとは対照的にあるのが「浸透王朝」なのです。
この類型の王朝では、自民族が中原に遷移する過程で積極的に漢民族の慣習や文化、ないしは制度を王朝内部に取り入れ、自民族との半平和的な文化融合を通じて建てた政権を指していると思われます(こうした場合の末路は、往々として王朝自体が完全に漢化され、自民族の根本を忘れさせられる結果を生みますが、これはまた別の話ですので、ここでは略します)。この類型の代表格とも言えるのが、漢化政策を推進した北魏なのです。

前置きはこれぐらいにして、ご質問の答えを出したいと思いますが、私が上記のことを踏まえて考えると、唐王朝(この前の隋にも同じことが言えますが)はこの二つのタイプの王朝にはどちらも当てはまらないように思えます。
まず、唐の政治制度から考えて、完全に漢民族元来の政治体制を踏襲していた(ある程度の変化はあったものの、基本構造はほぼ同じです)点から、「征服王朝」の概念から完全に逸脱していますので、征服王朝ではありません。

では、隋や唐が「浸透王朝」であったかというと、これにも疑問符がつくと思います。というのも、仮に隋や唐が浸透王朝だとしても、その浸透過程は北魏やそこから分裂した西魏、東魏の時代に既に完成しており、隋が成立した時は既に完全に漢化し切った王朝体制が出来上がり、文化面でも融合体が既に出来上がっていた状態でしたので、隋や唐は「征服王朝」とも「浸透王朝」とも違う「中原王朝」の一つとも言えるのではないかと思います。

以上。

ziz********さん

2012/7/1709:15:26

両唐書などの史籍では、唐の李氏は西涼武昭王李暠の子孫で、隴西李氏(つまりは漢族)ということにされています。しかし『法琳別伝』が隴西李氏ではなく拓跋達闍の子孫であるといい、『隋唐嘉話』が李元吉を胡児と呼び、『新唐書』宗室世系表によると李淵の祖父の李虎の兄の名を「起頭」と呼んでいることなどから、唐の李氏が鮮卑系であることは有力視されています。ただし陳寅恪が「唐光業寺碑」などから考証した趙郡李氏説も一定の説得力を持っていることは付言しておきます。仮に唐の李氏が父系にさかのぼって漢族であるとしても、母系では匈奴の独孤氏や竇氏、拓跋の長孫氏らの血が入っていることは確実であり、また支持母体の武川鎮軍閥(関隴集団)が北方民族系であって、唐朝成立当初においては北方系の色合いが濃いことは通説であるといってよいでしょう。
鮮卑がテュルクかモンゴルかというのは一大論争を形成するテーマであるので、ここでは言及を避けます。
唐が征服王朝に含まれない理由については、下の回答者諸氏の意見を参考になさってください。

zuo********さん

編集あり2012/7/1617:33:55

“征服王朝”とは、ウィットフォーゲル(ドイツ系アメリカ人)と馮家昇(中国人)が20世紀に創作した中国史理解の新しい概念のひとつです。

遼、金、元、清の4つの王朝は、かつて、中華中心主義的発想から「中国周辺少数民族が中国(中華文明)に同化されて設立された政権」と捉えられていましたが、ウィットフォーゲルと馮家昇は共著『中国社会史・遼』の中で、“征服王朝”と命名し、それ以外の漢族諸王朝とは異質なものであると説いてます。

つまり、“征服王朝”の言葉を創作した人間が、上記4つの王朝だけを“征服王朝”と呼び、それを分析する説を唱えたために、その4つだけが“征服王朝”と呼ばれるようになりました。

唐を含む五胡十六国の北方諸政権、南北朝の北朝政権(北魏、東魏、西魏、北斉、北周)、隋、唐は“浸透王朝”と呼ばれます。漢化を推し進めて、中原の文化に同化したと考えられたんですね。
ただ、質問者さんの言ってるように、元々唐王家は明らかに漠北系の血筋です。唐の姓は“李”ですが、他に“大野”という鮮卑族拓跋部の武川鎮軍閥の名門の姓を持っていました。

oia********さん

2012/7/1609:36:59

何代も前に中国に入りこみ、中国化した鮮卑族が建国した王朝だからです。
征服王朝は、当時の中国の範囲外で建国され、当時の中華王朝を破って、文字通り中華を征服した王朝の事ですから、建国前から中華の領域に住み、中国化した民族が起こした王朝は征服王朝とは言いません。

kak********さん

2012/7/1604:05:30

やっぱり王朝を開いた李淵が、自称漢民族だったからでしょう。
彼は北周の最高貴族八柱国の家柄ですが、さらにさかのぼれば北魏の武川鎮軍閥という辺境の軍事貴族の家柄です。北魏はもちろん鮮卑族の王朝ですが、かなり漢民族の文化がしみこんだ王朝だったし、上級貴族の中にも漢民族は混じっています。李淵が漢民族であったかどうか確かめるすべはありませんが、少なくとも宇文とか独弧とかあからさまな鮮卑姓を名乗っていませんから、漢民族であった可能性がゼロだとは思いません、まあ鮮卑族と結婚を繰り返していますから、純血でないことは確かですが。

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