邪馬台国当時の四国、九州について詳しく教えてください。正しい国の順番や伊都国などの国々が現在のどの辺りになるのかなど。 できれば各国の王の名前など(卑弥呼の名前やトヨについてとか)ご存知であれば。

邪馬台国当時の四国、九州について詳しく教えてください。正しい国の順番や伊都国などの国々が現在のどの辺りになるのかなど。 できれば各国の王の名前など(卑弥呼の名前やトヨについてとか)ご存知であれば。 飛越地方についても知っていることがあればお願いします。飛騨国の状況など。

補足

卑弥呼やトヨには本名があったのでしょうか?

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四国と本州(山陰~畿内~東海)は、 倭種・東[魚是]人の、銅鐸族(燕)公孫氏の支配でした。 『魏志倭人伝(通称)』当時、日本語はまだ成立していませんでした。 ヘブライ語や中国語が混在していたのです。 後世に残す為に、平安時代の日本国・大和朝廷(梨壺)が、 日本語の制定をしました。 「邪馬壹(やまい)国」の、共立された女王・卑弥呼は、奴姫(なひめ・難升米)です。 「邪馬臺国」の君臨者は、臺与(とよ)です。 ● 「55m/倭人里」 http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835208&tid=a1vr2bbva1a6oabfmeaa1w9tdx5adbbv2rc0o&sid=1835208&mid=19558#under-deli 平安時代の日本国・大和朝廷(梨壺)に依って、『魏志倭人伝(通称)』にも、 【倒語(とうご)や「暗号」、「(新旧)二重式読法」などが、仕組まれている】。 『魏志倭人伝(通称)』は、「55m/倭人里」を使用。《加治木 義博説》を支持。 【古云去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里】 ……魏使の「到」は、「万五百里の伊都(伊豆)国」まで。 対馬海峡横断(① 黄海&② 瀚海&③ 玄界灘) 「三千余里」=「55m/倭人里」《加治木義博説を支持》≒ 200km http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E9%A6%AC%E6%B5%B7%E5%B3%A1 『魏志倭人伝』の渡海・【北東の海流+南に漕ぐ→ 船は東南に進む】 始度一海(① 黄海)、千餘里至對馬國(韓半島ヘナム島~対馬)。 又南渡一海、千餘里、名曰(② 瀚海)。至一大國(対馬~壱岐)。 又渡一海(③ 玄界灘)、千餘里至末盧國(壱岐~唐津湾→松浦川)。 七千里 水行・帯方郡治~狗邪韓国(倭人支配) 「55m/倭人里」(誤差は、一割五分程度か) 千余里(約55km余)狗邪韓国~渡海~対海国《対馬》 千余里(約55km余)対海国~一大国【壱岐・魏の直接支配地】 千余里(約55km余)一大国~渡海~末盧国《唐津湾の松浦川を船で遡る》 から陸行に転じ、五〇〇里(約27.5km)「(暗号)草木茂盛、行不見前人」 =【多久の道】を《東南陸行》 ~「★伊都国(行政府)」・《佐賀県小城市牛津町》 《計・万五百里》=「伊都国(いづら)」 =《佐賀県小城市牛津町・港でもある・魏使到着常駐》。 「卑彌呼以死大作冢徑百餘歩殉葬者奴婢百餘人」 【▲矛圏】【(傍流)太伯後(▲孫姓鳩派物部氏)卑弥呼(難升米)の墓】 以降は、倭人の「至」 、、、、、 「(ガラス管と剣が副葬)1002号墳」径百歩 《★伊都国から、放射状説を採る》 伊都国《佐賀県小城市牛津町》ーー-東行至百里・不彌国(▲吉野ヶ里) 、/ ↓\ 、、、、、、、、、《▲卑弥呼(太伯後・物部氏)の王宮(城塞都市)》 ↓有↓ 、\ ↓明↓、、【帥升】東南百里・奴国《なら■奈良。山門を含む佐賀市》 ↓海↓、、《邪馬壹(やまい)国・筑紫平野 ↓、 ↓ 【以上が、魏略逸文と同内容の(旧)『魏志倭人伝(通称)』 当時の「邪馬壹国・筑紫平野」情報】 ━…‥‥…━…‥‥…━…‥‥…━…‥…━…‥…━…‥…━…━…‥…━ 【以下は、(新)西暦639年成立以後の、(臺国+倭国の)大倭(やまと)国関連情報】 ↓ 、↓ ↓を↓、、【陸は、通行不可】・《不仲な卑弥弓呼の狗奴国(旧奴国)》 ↓南↓、、【狗奴国(旧奴国)は、玉名市か熊本市以南、八代市以北】 ↓下↓ 、、(旧)【▼剣圏】「狗奴国(旧奴国)」 ↓ 、↓ 、=(新)【天武が乗っ取った★百済(都は久留米)】 ↓ 、↓ ↓、一五〇〇里 ↓ ↓ 倭人が小舟で(有明海を)水行十日南下(千五百里)・ ↓、《計 万二千里 》 【●鏡圏】(本流)季歴後の、●姫姓蘇我氏 ↓、「接女王国(国境)」八代市 《八代市以南が女王国》 ↓、「倭国は極南界」の叙王国は、大倭国(薩摩)君臨者は、推古太上天皇 ↓、「余」は、国内行(一ヶ月)・八代市~●都の隼人町姫城(姫木)まで http://photos.yahoo.co.jp/ph/zan23647/vwp?.dir=/761d&.dnm=ac0e.jpg&... ━…‥‥…━…‥‥…━…‥‥…━…‥…━…‥…━…‥…━…━… ↓ 【倭人が外洋船で】水行二十日南下・投馬国(とまや ←) 《トカラ列島の宝島(会稽東冶の東)》 =西暦248年に、 【●鏡圏】臺与(蘇我氏)の「邪馬臺(→ やまとノ倒語・とまや ←)国・宝島」成立。 【平安時代の日本国・大和朝廷(梨壺)の才人、 馬内侍(清少納言)の仕掛け・倒語(とうご)】 見渡せば花も紅葉もなかりけり浦【裏】の苫屋【投馬国(とまや ←)】の 秋【蘇我大王家】の夕暮【没落】 藤原定家 (倒語)「投馬国(とまや・苫屋)」=邪馬臺(やまと)国。

ThanksImg質問者からのお礼コメント

皆様、大変参考になりました。ありがとうございます。

お礼日時:2012/10/23 19:10

その他の回答(3件)

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先ず卑弥呼とは記さず本名の(オオヒルメ)と記します。 出雲で八俣遠呂智を顰したスサノオが日本の年表の一番端に当たる人物でしょう。そのスサノオは今を診れば解る通り冬が来ると雪深い寒冷地の山陰地方から、暖かさと実りを求めて九州遠征を行います。 ここでもちろんオオヒルメと出逢う訳ですが、女のオオヒルメは交戦することはせず逆に騎馬隊の勇猛果敢なスサノオに惚れてしまいます。 そして割愛しまくりですが、二十歳そこそこのオオヒルメは50歳近くのスサノオの現地妻になります。 そして九州王国を誕生させスサノオ亡き後これを継いだのが女王誕生の正体でしょう。 因みに中国四国地方を拓いたのは、スサノオの五男で初代大和大王ニギハヤヒです。 以上、大本になるような内容を簡単に記しましたが、各地の神社の祭神が雄弁に物語ってくれています。

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魏志倭人伝の距離の記述は、すべて直線距離の短里法(一里は76m~77m)で書かれています。従郡(楽浪)~加羅 加羅~対馬 対馬~壱岐 壱岐~末盧国(現在の福岡県 宗像市) 末盧国~伊都国(現在の、みやこ町北部) 伊都国~奴国(みやこ町南東部) 奴国~不弥国(現在の築上町)*記述のとおり、海岸に出てきます。投馬国以後の国々は、里数表記がないため、証明はできませんが、愛媛県から香川県にあった国々であることはわかります。・・魏志倭人伝には帯方郡(サリウォン市)から12,000里、すなわち912㎞~924㎞に女王国があると書かれていることなどや、水銀朱、東は海などの証明から、邪馬台国は徳島県で間違いありません。また、その事実から考えると、当時の大和政権は九州北部、壱岐、対馬、四国(高知は除く)、山陽であり、それ以外は違う文化圏であったことが見えてきます。・・・補足の回答、卑弥呼は天照(おおひるめ)?、トヨは豐玉姫(とよたまひめ)?

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これは私の私見ですが 卑弥呼 は当時記録した大陸人の発音では 「ぺめふぁー」となります 魏志倭人伝は当時の大陸の人が自分達の発音で 当て字をしたものなので 「ひみこ」なる人物は存在せず 「ぺめふぁー」という人物がいたのです さて、そこで問題なのですが 日本語の父・母はこの時代 ティーティー・ファーファー と言っていたことがわかっています。 で、女王のぺめふぁー、は ぺめ、の、母、という意味では なかったのでしょうか