当時の日本で宣教されていたキリスト教は、一教派、カトリックのみです。二つの表現は同じものを言っています。
耶蘇教ですが、耶蘇は、中国語のイエスです(中国語の発音では耶蘇はイエスに近いらしいです)。ヤソはその日本語読みです。
天主教は、中国語でいうカトリック教会をあらわす表現からの転用です。
(「天主」という言葉は、キリスト教を中国宣教する際に考え出された、キリスト教の「神」をあらわす中国語由来の表現です。)
神を「デウス」というのは、ご質問のように翻訳に伴う誤った先入観を嫌って、ラテン語の神(Deus)という単語をそのままカタカナ語にしたものです。この「デウス」と上記「天主」は、キリスト教で捉える神、宇宙万物の創造者、全能永遠の神を表現しようとした言葉です。
ところで、質問者さんも、「三位一体(さんみいったい)」という言葉を、おそらく耳にされたことがあると思います。三位一体とは、三つの固有の位格「父なる神・御子イエス・聖霊」が、それぞれが互いに呼応し合う関係性を持ちながら、三つの神ではなく一つの神であるという、キリスト教における奥義です。ご質問の「デウス」というのは、三位一体(父・子・聖霊)の第一位格、父なる神のことを言っています(補足: 当時 イエスは「ジェズ」と言われていました)。キリスト教の信仰は、本質的には、父なる神に向かい、神である聖霊の働きの内に、神であるキリストを通じて なされます。
キリスト教における祈りは、概念的には次のような表現になります。
「神よ、~としてください。聖霊の交わりの中で、主イエスキリストによって」
教会のミサ中の祈願文も、基本的に「神」(父なる神)に向かって祈る形態をとっています。
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キリスト教では、父なる神のほか、イエスや聖霊にも、祈りを捧げることがあります。もちろん、三位の交わりにある各位格に対して行われるものですので、三位一体の神との対話という意味では根本は変わりません。
特に「イエス」の名を唱える場合ですが、「イエスこそ真の神を示す方」という信条に基づく表現といえると思います。教会の信仰では、イエスは、完全な神が完全な人となった方で、真の司祭職、王職、預言職をつかさどる方とされます。キリスト教信者にとって、イエスは「神なる主」なのです。