釈尊の生前の言葉を、弟子たちが記憶に留める為に韻文(詩句)にして暗唱したのが「お経」の原型だと言われています。
やがて、後の佛教教団が文字にして編纂されたのが原始佛典(五部のニカーヤ)です。
当時の人々は当然のことながら、意味が解かった上で唱えていたのです。
釈尊の死後500年頃から、大乗佛教運動が展開され、多くの大乗佛典が大乗佛教徒達によって創作されました。
今日、我が国に伝わって各佛教宗派で読誦されている「お経」は殆ど大乗佛典です。
インドで生まれた佛教は原始佛典に依拠する南伝佛教(スリランカ・ミヤンマー・タイ等)と大乗佛典に依拠する北伝の大乗佛教(中国・韓国・日本)とが有りますが、我が国に伝承された大乗佛教の経典は、全て中国に於いて漢文に翻訳された為、日本では漢字の音読の棒読みで唱えられる習慣になりました。
そのために、内容が理解出来るのは漢文を読み下すことが出来る僧侶や王侯貴族などの一部のエリートに限られ、それがインテリ達の一つのステータスとなったのです。
佛教関係者達は、殆ど漢文の「お経」を誰でも読める日本語に訳そうとはぜず、一般人には理解できない経典に権威を持たせ、それを民衆支配の道具に使っていたのです。
要するに「お経」は一般人には解からないからこそ「ありがたい」存在となりました。
殊に、鎌倉時代ころから、佛教が葬送儀礼に携わるようになってからは、「お経」は死んだ人を成仏させる呪文のように見做されるようになり、檀家制度が整備された江戸時代からは、その傾向が益々顕著になりました。
佛教の僧侶達は、葬式や法事で漢文の棒読みで「お経」を唱えますが、その意味する所は殆ど説明しません。
だから、貴方が言われるように「殆どの佛教信者は意味もわからなくてお経を唱えて」いるのです。
キリスト教のバイブルや、南伝佛教の原始佛典などは、すべてそれぞれの国の現代語に翻訳されたものを使用していますから、その内容を容易に知り得ますが、日本の佛教は経典読誦が儀式化している為に、呪文の様に意味の解からないお経の棒読みをしているのです。
これは偏(ひとえ)に檀家制度に胡坐(あぐら)をかいた佛教僧侶の怠慢と言えるでしょう。
今日では多くの佛教学者達が原始佛典や大乗佛典の日本語(現代語訳)訳を完成させていますから、学ぶ意志さえ有れば、誰でも、「お経」を読めるようになりました。
【追記】
今後の日本佛教の課題は、お坊さん達がお経の中身を、多くの信者さん達の生活に活かしていけるように、丁寧に教えてあげる事だと思います。
お経は亡くなられた方だけのものではなく、むしろ生きている人々の為に有るのですから。