弁証法とは、確かに、何人かの方が、その名前を使ったので、一概に答えることは出来ないのですが、
哲学で弁証法と言えば、一般的にはヘーゲルを指しますので、
ヘーゲルの弁証法を説明します。
ここに物体Xがあります。これを「リンゴ」と名付けます。しかしXは、ミカンとも名付けられたはずです。
つまり物体Xは、「リンゴ」でもあり「ミカン」でもあるわけです。これは単なる呼び名の話ですが、
別の例で言うと「赤」にしても、赤い車、赤い夕焼けと異なるし、同じ「人間」でも皆、別人です。
この様に「Aは、Aではなく、非Aでもある」というのが主張です。
つまり私達は同じ人間であると同時に、個々人でもあるというのです。
難しいので、もう少し例を挙げます。
物体Xは、どんな名前も付ける事ができますよね。リンゴでもいいし、ミカンでもいい。
では、ここに赤があります。これは物によって、「赤い車」「赤い夕日」だったりします。
次に人を考えて見ます。貴方は人ですよね。でも貴方自身でもありますよね。
つまり貴方は、貴方であり、人(非貴方)でもあるわけです。
赤は、赤であり、非赤(赤い車、赤い夕日)でもあるのです。
続けます
そして人間(客観)と個々人(主観)の矛盾は、合わさる必要があります。
(上の例では、貴方と人を、合わせるということ)
それは主観と客観の同一性です。有名な正・反・合です。
これが弁証法ですが、よくある間違いで、“合”が次の“正”にはなりません。
導かれた合という答えが、先の人間の話で「存在」だったとすると、「存在」を正にして、反を主張し、合を導く事は出来ません。なぜなら合が正に格下げするからです。
しかしながら、ヘーゲル自身は著書の中で格下げをしており、現在の学者は、これを誤りと指摘しています。
これも難しいので、例を挙げます
花は、花自身を否定して、実になると考えられます。何故なら…
花(A)は、花でないもの(非A)でもあります。というのも、花が花でしかなかったら、永遠に“花”のままだからです。
花は、今の状態を保持するのでなく、枯れたり、実になったりしますね。
どうして枯れたり、実になったりするのでしょうか?
それは生物学的な理由があるのでしょうが、とりあえず何か原因がありますよね。
それをヘーゲルは、非花(花自身の否定)と呼んだわけです。
つまり花は、花でもあるし、非花でもあります。
この非花(花自身の否定)があるから、花と合わせて(正・反→合の“合”ですよ)、実になれるわけです。
この様な考えを、弁証法と呼びます。
なお蛇足ですが、ヘーゲル弁証法の結論は、次のようになります。
弁証法の最終結論は、存在の根源(別名で世界・神と呼ばれるもの)が、絶対無である事を証明するものです。
例えば私達が世界について知ろうとしても(正)、知らない一部分が既知になるだけです。
これは、まだ知られない世界がある(反)事を意味しており、この知らない世界がある(世界が絶対無である)事に気付くこと(合)が弁証法の結論です。
これも例を挙げますと
「花は、花自身を否定して、実になる」
↓
「世界を知る事は、まだ知らない世界を否定して、新しい世界(知らなかった世界)を知る事になる」
という考えです。
この「まだ知らない世界」がある事に気付く事が、存在の根源(神)だとしたのが、
最も高次の結論である「神」を知る事が、最終結論とされます。