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本当らしいですよ。 「日本電報通信社は戦前の準特務機関としての性格を生かし、政府・GHQに食い込むことに成功します。1947年に社長が公職追放に遭い、新社長に「鬼十則」で有名な吉田秀雄が就任すると、この動きはさらに加速しました。 吉田は満州や上海から引き上げてきた、旧軍人・満鉄関係者を電通に大量に採用します。彼らは広告のノウハウを持っていたわけではなく、電通で実質的にフィクサーとしての活動を行っていました。大陸人脈や政財界との近さ、そしてCIAとの関係など、彼らはミニ児玉・ミニ笹川の集団だったと表現しても過言ではないでしょう。 電通が時として、名高い「満鉄調査部」の後身と呼ばれるのはこのような背景に基づいているのです。 この社長吉田秀雄は、戦後の「大電通」を確立させた功労者です。電通の「フィクサー化」だけに留まらず、アメリカ式広告法の導入などの、電通近代化を推し進めました。 更に電通は1951年に放送を開始した商業ラジオや、1953年に本放送が始まったテレビ放送にもいち早く着目しました。当時誰しも懐疑的だったラジオ・テレビ広告の事業開拓を行い、社長の吉田自らも免許申請を行うなど、多くのラジオ局・テレビ局の設立に関与したのです。実際、吉田は幾つかの放送局では取締役に就任しました。その中でもTBSは吉田の関与が深く、現在でも民放の中で最も電通と親密だと言われています。 結局、ラジオ・テレビ化の流れにいち早く対応できた電通、そして少し遅れて進出した博報堂が、戦後広告業界の1・2位として固定し続けることになりました。50年代始めは、現代の広告代理店業界地図の枠組みが出来上がった時期といえるでしょう。」 http://ameblo.jp/nihonkokunokenkyu/entry-10004774055.html
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質問者からのお礼コメント
詳しい回答をありがとうございました。
お礼日時:2008/4/28 18:37