カール・グスタフ・ユングのパーソナル心理学に於いて「自我肥大」(エゴインフレーション)は、ユングの言う完全なる「個性化」すなわち、極言すれば「自己とは全宇宙」に至る過程において、誰でも陥りがちな自我と宇宙が同一になったような一体感を覚える事に起因する異常な自己陶酔的な優越感を伴う心理状態であると説明されています。
無意識層の中で個人的無意識の底流に横たわる集合無意識層の最底流には地球的無意識と表現してもよい領域があり、そこに到達した時点は将に生と死の接点であるとも言えます。
ユングは自己の体験を通して「地球そのものを目の当たりに見たようだった」と述べています。
実に佛教の優れた視点は、自らは他の一切すなわち全宇宙に支えられた「縁起」なるものであり、その本質は「無我」であると説く点にありますが、この場合に自らが宇宙の全てに支えられた存在であるという視点を見出すことが出来なければ、自我に対する極度の実体視を伴い、自我は自らの足元を見失って過剰な優越感に浸り、やがては自らが神になったかのような傲慢な心理状態に陥ることがあります。
また、その裏腹として自己の存在意義を喪失し、虚無の恐怖に打ち克つ為に自ら自我を実体視して肥大化させているとも言えます。
自らを実体視し肥大化させると言う事は逆に虚無の恐怖に晒されることでもあるのです。
膨らんだ自我は再び萎みはじめますが、膨らんだ風船が萎めば元に戻らないように、一度極度に肥大化した自我を復元するのは至難の業なのです。
自らの深層心理の世界に内観によって分け入る者がともすれば陥りがちな危険な状態でもあります。
ユングは「魂のインフレーション」と表現しましたが、これは人間らしい感情からの決別と、非感情的な精神レベル、換言すれば生と死の接点に現出する心理状態であると言えます。
「自らが神である」あるいは「人間を超えた存在者」であるという感情に支配されることは、ある意味では自ら人間性を全否定する傲慢の権化となる事を意味します。
この異常な精神状態はニーチェの言う「永遠回帰(永劫回帰)」に相当するとユングは考えたようです。
文学部の学生がニーチェの思想を哲学や文学の分野で学んで、その思想哲学の理解に苦しむのも道理で、彼の文章は論理的に破綻している箇所が少なくなく、哲学や文学の分野で理解するよりも心理学的に解釈したほうが理解し易いと言われる所以です。
ユングは東洋の宗教の中でも佛教に非常に造詣が深かった心理学者ですが、それは彼が「ブツダこそ魂の領域の征服者」だと評していることからも伺えます。
佛教に於ける「自我肥大(エゴインフレーション)」の過程に相当する概念は「魔境」であると考えられます。
「魔境」とは佛教的内観とも言える禅定を修行する者が、一度は体験し、それを見破り克服しなければならない佛道を妨げる魔の領域であると言えます。
中国隋代の高僧である天台大師智顗(ちぎ)の講義を弟子の章安大師灌頂(かんちょう)が筆録した『摩訶止観』巻八下には「魔事境」として詳細に説かれていますが、その趣旨は概ねユングの見解に酷似しています。
魔事とは「禅魔」に憑依された精神状態であり、禅定の未完成な段階(有漏の禅定)を、禅定の極致であると思い込み、現に仏陀が現れて、自らは仏陀の無上の法を体得したのだという歓喜に打ち震え、そこから自らは大した者だという異常な優越感に浸り、やがては自分は勝れた無上の法(増上の法)を証得し、他に勝ると思い込み他を見下すような心理状態に陥って、向上心を喪失する。
これが「増上慢(ぞうじょうまん)」の意味です。
心理学で言うと、これは極度の自我肥大によって引き起こされた精神状態であると言えます。
この状態を佛教では「野狐禅(やこぜん)」と呼んで誡めています。
天台宗では『法華経』の「宥和一致」の教えに依拠した禅の初学者に対する指南書である『摩訶止観』を学ぶことは必須であり、「教観双美」してはじめて正しい仏道修行が出来ると説いています。
また「教外別伝不立文字」と立てる禅宗に於いても、経典の言葉に拘泥する事無く、しかも経典や論釈の言葉を尊重し、師匠に師事することの重要性を説くのはその為です。
「生兵法(なまびょうほう)は怪我の元」という言葉がありますが、「心理学的あるいは佛教における『止観(禅観)』の知識を持たない人が興味本位で、禅の真似事はしない方がよい」と、故・水上勉氏が仰せだったことも頷けます。
「下手の鉄砲も数撃ちゃ当たる」では有りませんが、座禅して、今までにない特殊な精神状態になり、仏や神の姿を目の当たりにする事が、たまにあるそうですが、それは間違いなく魔境特有の現象であると考えた方がよいでしょう。
深層心理における精神的アンバランスは日常生活における独善的な態度や傲慢な発想に無意識のうちに結びつき易いので、くれぐれも注意が必要です。