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古代中国史…漢=火徳について 五行説と王朝の関係についてよい文献資料などありますでしょうか?

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ThanksImg質問者からのお礼コメント

お二方、分かりやすい説明ありがとうございました! ベストアンサーは最初に回答して下さったfrogman03544さんに…。 frogman03544さん、書籍もあげていただきありがとうございました。どちらも近くの図書館にあったので読んでみようと思います!

お礼日時:2010/12/22 20:19

その他の回答(1件)

分かりやすい資料というのはちょっとわかりません。 日本でどんな本が出ているのか、最近は分からないので・・・。 漢の徳に関して、先日私も質問したことが有り、その時に自分なりに調べてみました。 出典を紹介しながら説明してみます(参考になればいいのですが・・・)。 漢成立時、周は火徳で秦は水徳だ、と考えられていました。 (なぜ周が火で秦が水かということになると、漢の説明をする前に字数が足りなくなる可能性が有るので割愛いたします) 水徳の秦を倒した漢がなぜ周と同じ火徳なのか、というのは複雑な理由が有ります。 まず、漢建国当初の徳は火ではなく水です。 漢初は秦の制度を継いでおり、徳も変更されず、水徳のままでした。 文帝時代の丞相張蒼が 「以高祖十月始至霸上,因故秦时本以十月為歳首,弗革。推五德之運,以為漢当水德之時,尚黑如故」 と言っています(『史記張丞相列伝第三十六』)。 「高祖劉邦は10月に覇上に到り、秦を滅ぼして漢を建てた。秦は10月を歳首としており、漢はそれを変えていない。秦ではなく漢こそが水徳であり、水徳の色である黒を尊ぶべきである」 というような意味です。 「歳首」というのは一年の始めのことです。 古代の暦に関することで、これまた字数制限が有るので詳細は控えます(先日歳首に関する質問も有りましたので、興味あったら探してみてください)。 もう少し簡単に言うと、 「火徳の周の後に来るのは水徳の政権で、それは秦ではなく漢だ。秦は短命で暴虐だったから水徳を称する資格がなく、漢こそが水徳だ。」 という意味です。 これに対し、張蒼が丞相になって十数年後、公孫臣が異議を称えました。 「其後黄龍見成紀,於是文帝召公孫臣以為博士,草土德之暦制度,更元年。張丞相由此自絀,謝病称老」(『史記張丞相列伝第三十六』) 「黄龍見成紀,天子乃復召鲁公孫臣,以為博士,申明土德事」(『史記孝文帝紀第十』) 「成紀という場所で黄龍が発見された。黄色は土徳の色だ。これは漢が水徳ではなく、土徳の証拠だ」ということで、漢は土徳を称し改元しました。 これによって丞相張蒼は引退します。 漢が土徳になった結果、周の火徳と漢の土徳の間に水徳が必要になり、秦の水徳が改めて認められることになりました。 武帝の時代、三統という考えと五行が一緒になり、漢の土徳が更に固められるのですが、三統の説明も省きます。 武帝は「太初暦」を採用したり、各制度を改めて、漢が土徳であることを確定させました。 しかし前漢末になるとまた大きな変化が起こります。 劉向・劉歆親子が漢は火徳だと主張しました。 「劉向父子以為帝出於震,故包羲氏始受木德,其後以母傳子,終而復始,自神農、黃帝下歷唐虞三代而漢得火焉」(『漢書郊祀志第五下賛』) 他の史料を参考にこの内容を解説すると; 前漢末、劉向親子は『易経』を研究している時に「帝出於震」という記述を見つけました。 「震」とは東を意味します。 今までの五行説では 黄帝土德→夏木徳→商金徳→周火徳→秦水徳→漢土徳 と考えられていました。 しかし「帝が東から出た」となるとこの説が当てはまらなくなります。神話の世界では黄帝は中央で、東に当てはまるのは伏羲だったからです。 更に劉向親子は木が土に克ち(勝ち)、金が木に克ち・・・という相克の考え方は王朝交代の理論にふさわしくない、と考えました。 そこで生まれたのが、伏羲を筆頭にする相生の流れです。木が火を生み、火が土を生み・・・という考えです。 太昊伏羲木德→炎帝火徳→黄帝土德→少昊金德→顓頊帝水德→帝喾木徳→唐堯火德→虞舜土德→夏禹金德→商湯水德→周代木德 秦は法を重視し徳が無いということで、今回も秦は省かれ、漢が木徳の周を継いだ火徳とされました。 ここで、火徳の漢が登場します。 前漢を滅ぼしたのは新の王莽ですが、彼は黄帝と虞舜の流れを継ぐ土徳を名乗りました。 『漢書王莽伝第六十九中』に「予伏念皇初祖考黃帝,、皇始祖考虞帝」とあります。 劉向親子の説は王莽に利用され、火徳の漢から禅譲を受ける時の口実とされました。 (劉向親子が王莽に迎合するため、相生説を称えたとも言われています) 王莽の新を倒し、後漢を建てた劉秀は新を正式な政権と認めず、前漢の火徳を継続させています。 『後漢書光武帝紀第一上』に「始正火德,色尚赤」と有ります。 都洛陽の「洛」からサンズイを取り「雒」に変え、「雒陽」と改名されたのはこの表れです。 こうして、漢は正式に火徳とされ、後の土徳につながっていくことになります。 *長々と回答書いている間にfrogman様に先を越されてしまいました・・・。 内容ダブっておりすみません。